ご飯を炊くということ——千数百年続く、静かな祈り

ごはん

春夏秋冬ほぼ毎日、日本中の家庭で炊飯器が蒸気を吹き上げている。ピッ、とスイッチを押せば、あとはほうっておくだけ。現代人にとって炊飯は、もはや料理とも呼べないくらい手軽である。

ところで、この「炊く」という動詞、米にしか使わないのをご存じだろうか。

動詞の「炊く」は、米専用

野菜は「煮る」か「茹でる」で、豆腐は「温める」。麺類はやっぱり「茹でる」。米だけが「炊く」。他のどの食材にも使わない、米のための動詞だ。「炊く」の語源は「焚く」で、つまり火を燃やすことである。薪をくべ、その火で米を炊く。煙が立ちのぼり、家族が集まる。かつてはそれが一日の始まりだったのだ。

言葉というものは、相応の体験と時間が積み重なったとき、専用の器として生まれてくる。日本人が米に向けてきた特別な感情が、この一語に凝縮されているような気がしてならない。

「ご飯」という言葉が、時間帯を問わず食事そのものを意味するのも日本語ならではだ。中国語でも「飯」は食事を意味するけれど、「早飯」「午飯」「晩飯」というふうに時間帯とセットで使う。英語の「breakfast」や「dinner」などはそもそも食べ物を指す言葉でさえない。語源は「断食を破る」という言葉だ。日本人にとって三度の飯は、いつでも米そのものだった——ということがよくわかる。

はやま

ご飯の「飯」は「炊いた穀類」という意味です。日本では「炊いたお米」のことを指しているといっていい。「朝ご飯、トーストでいい?」と妻がよく娘に聞いていますが、あれは「炊いた穀類は、パンでいいか」と言っていることになる。なにやらスパイの合言葉みたい。そのうち台所のどこかが開いて、知らない地下室にでもつながりそうです。

米粒ひとつに、七人の神さまが宿る

日本には古くから「一粒のお米に、七人の神さまが宿っている」という言い伝えがある。だから米を粗末にしてはいけない、残してはいけないと、僕は子どものころによく言われた。バチが当たる、目がつぶれるぞ、と。あれは道徳の話ではない。米はずっと神さまと地続きの存在だったからだ。

毎年十一月、天皇陛下は宮中で新嘗祭(にいなめさい)を行なう。その年に収穫された新米を神に捧げ、五穀豊穣に感謝する祭儀である。記録によると飛鳥時代から千数百年以上、途切れることなく続いている。

それが戦後、国民の祝日として姿と名を変えた。「勤労感謝の日」だ。感謝する相手が、神から労働に変わってしまったのだけれど、根底にあるのは昔と変わらず、収穫への祈りだ。

ちなみに七という数字は、世界中でなぜか特別扱いされてきた。虹は七色、一週間は七日、古代七不思議、ヨガのチャクラは七段階、キリスト教の七つの徳と七つの大罪、ギリシア神話のプレアデス(七姉妹)、七福神は七人……。キリがないからこの辺でやめておくが、米にも七人の神さまだ。一説によると、米作りには七つの工程(田起こし、代かき、田植えなど)があり、七人の神さまの由来はこうした農耕文化の感覚ともつながっているというが、僕は幼心に「そんなに詰め込んで大丈夫か?」と心配になったものだ。

神さまが住まう伊勢の空気

数年前、娘と二人で伊勢神宮を訪ねた。

早朝に車で出発し、四日市あたりに差し掛かった時のことだ。晴天なのに日差しが弱々しかった。空はくすみ、街全体が昭和の写真みたいに黄ばんで見えた。大気中にただよう煤塵などが光の粒子を乱反射させていたのだろう。大気汚染をあれほどはっきり感じたのは初めてだった。娘と一緒に驚いたことを覚えている。

夕方になって、伊勢に入ったとたん空気ががらっと変わった。濁っていた空にぱっと朱と青みが戻り、景色は数段あざやかで明瞭になった。写真アプリで自動補正をかけたみたいだった。「神さまがいる土地はやっぱり何かが違うね」娘がぽつりと言った。

外宮の空気は凛と張り詰めていた。売店の巫女さんの接客態度もツンと張り詰めていて、娘が怖がっていたことはさておき、僕らは「場」の持つ力というものをたしかに感じとっていた。

伊勢神宮では毎年十月に神嘗祭(かんなめさい)が行なわれる。全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮で、その年の新米を天照大神に最初に捧げる祭りである。米は、神さまへの最初の供物だ。この祭りもまた千年以上続いている。

ここでまた話を七に戻そう。日本では古来、七は「境界を越える数」だった。七五三で子どもは神から人になり、七草でその年の健康を祈り、七転び八起きで人生を語る。七輪、七味、七夕、初七日など他にもいろいろとあるが、してみると七は単なる幸運の数でなく、世界共通の調和の数なのだろうと思う。米粒にぎゅうぎゅうに押し込まれた七人の神さまも、おしくら饅頭でもして仲良くやっているのではないだろうか。

伊勢の内宮にある本殿へ向かう階段で、僕はまるで異世界へ踏み込んでいくような錯覚を覚えていた。一歩ごとに日常が剥がれ落ちていく感覚があった。

内宮をひと通り参拝したあと、うなぎの名店でうな重を買った。ホテルに持ち帰って食べると、絶品であった。娘はうなぎが苦手で、しかも周囲には飲食店がほとんどなかった。結局、彼女の夕食はコンビニのおにぎりとカットフルーツになった。

そのコンビニのおにぎりも、炊いた米である。工場の大型炊飯器で炊飯した米が、機械に握られ、フィルムに包まれて並んでいる。形はどうあれ、米は今日も誰かの腹を黙って満たしている。

炊飯器の音が今夜は厳かに聞こえる

ついさっき炊飯器のスイッチを押してきた。右手で米を研ぎながら、少しだけ背筋が伸びる思いがした。

「炊く」という言葉を使い始めたころの人々の暮らし、米粒に七人の神さまを見た先祖の感受性、千年以上途切れることなく続いてきた祈り——それらが炊飯器のスイッチひとつに静かに宿っている。一粒に七人の神さまが住まわれているというなら、スイッチを押すたびに七つの祈りに火を入れているのかもしれない。

そう思うと、いつもは騒がしく感じる蒸気の音も、今日はなんだか厳かに聞こえてくる。