人生は苦悩に満ち、世界はいつも美しい——仏陀になれなかったアムロを思う夜

窓から夜桜を眺める男性

家族が寝静まった台所で一人、グラスを傾けていると、子どもの頃の記憶がふいによみがえることがある。

その夜はなぜか「二度もぶった! 親父にもぶたれたことないのに!」だった。上官ブライトに叩かれたアムロ・レイが吐き捨てるあの台詞だ。

『機動戦士ガンダム』を初めて観たのは再放送だった。最初はメカに夢中だった。やがて興味の対象はアムロという主人公の少年に移っていった。

あの頃、数え切れないほどのテレビアニメを観ていた。

それなのにガンダムは何十年経っても特別なものであり続ける。なぜだろう。深夜の台所でいつもは極力ものを考えないようにしている。でもその日はめずらしく、ぼんやりと思索をめぐらせていた。

そうしたら思いがけないところに着地した。

仏陀である。

葛藤し苦悩する等身大のアムロ

ガンダム以前のロボットアニメには共通の文法があった。選ばれし少年が巨大ロボットに乗り込んで正義のために戦う。主人公は勇敢で迷わない。敵を倒すたび成長していく——。

ところがアムロはちがっていた。

なりゆきで開発中のガンダムのパイロットになる。性格は内向的。しかも思春期のど真ん中。恐怖に駆られ敵前逃亡することもあれば、味方の窮地を救って思い上がり、横柄にふるまうこともある。上官から叱責や懲罰を受けると、目の前の戦闘をボイコットすることもある。

ヒーローでもなんでもないのだ。

アムロだけでなく、ガンダムの登場人物は皆、理想と現実のはざまで葛藤し、苦悩していた。僕らと同じ血の通った人間だと感じさせてくれた。

人の自我はもともとエゴとナルシシズムの塊だ。生きてきた時間のぶんだけ、そこにコンプレックスやトラウマが積み重なっていく。だから誰しもアムロと同じような苦悩を抱えて生きている。

苦しみと向き合い、覚醒した仏陀

悟りを開く前の仏陀も「人生は苦に満ちている」と言った。

若き日の仏陀は、老いや病、死という人間の根本的な苦しみに目を向けていた。そこから自我に行き着いた。自己と他者を隔てる「私」という感覚こそ、人の苦しみの一切を生み出す源泉であると悟ったのだ。

ガンダムには、ニュータイプという概念が登場する。

重力の軛《くびき》から解放された——宇宙に暮らすようになった人類に芽生える新たな感覚のことである。

アムロは敵のパイロット、ララァ・スンと戦場で出会い、心と心を直接通じ合わせる。自分と他者、世界の境目が溶けるような甘美な体験だった。

覚醒した仏陀は、最晩年にこう言ったと伝わっている。

——この世は美しい。

苦から美へ。変わったのは世界でなく、それを見ている人間のほうだった。

仏陀は悟り、アムロは覚醒しなかった

だが、アムロのニュータイプへの覚醒は、最後まで仏陀の悟りのように完全なものにはならない。特別な能力を手に入れながらも迷い、ふてくされ、悩み続けていた。

それが現実だろう。

僕らのほとんどは一生かかっても悟りを開くことなどできない。どれだけ瞑想しようが、何万回真言を唱えようが、身を切るような滝に打たれようが、可能性はほとんどゼロだ。赤道直下でストーブを売るほうがずっと簡単だろう。

子どもだった僕は、だからアムロに親近感を覚えていたのだと思う。毎週、テレビの前で励まされていたのかもしれない。

なにしろあの頃はまだ、人生の苦悩が酒でやわらぐと知らなかったのだ。

カラン。氷が小さく鳴った。

グラスがからだ。

車のヘッドライトが小窓越しに差し込み、台所の天井に模様を描いていく。

寝室から妻のいびきが聞こえてくる。

今夜はもう少し飲むとしよう。