裸足の父と靴下の娘——グラウンディングを娘に売り込んだ話

グラウンディングする父と娘

我が家は、川まで徒歩一分である。

玄関を出て、坂をちょっと下ればもう河川敷だ。よく晴れた日の午後、芝生の上に立つと、太陽が首すじをじりじりと焼き、川を渡ってくる風が水と草の匂いを運んでくる。こういう日、僕は靴を脱ぐ。靴下も脱ぐ。裸足で芝生の上に立つ。

足の裏に地面の温もりがじんわり伝わってくる。日を溜め込んだ芝は思いのほかあったかい。チクチクしてくすぐったくて、一歩ごとに土がわずかに沈む。この感触を、僕は「気持ちいい」以外の言葉で説明できたことがない。説明できないから、娘にもやらせたくなった。

「脱いでごらん。気持ちいいぞ」

娘は、後ずさりした。

「やだ。汚い」

汚い。出ました。現代っ子の第一声である。続いて彼女は腕を組み、検事のように論告を始めた。ガラスが落ちてたらどうするの。虫がいたらどうするの。そして極めつけ——。

「犬のうんち踏んだらどうするの」

犬のうんちの黄金時代

うんち。確かに河川敷は犬の散歩コースでもある。だが諸君、いまの飼い主たちを見るがいい。全員、袋を持っている。うんちは発生した瞬間に回収される。現代の犬のうんちは、野に放置される暇がないのである。

「パパなんか子どもの頃、何回踏んだことか」

「げえ」

心の底からの「げえ」だった。しかし僕は語らねばならない。語り続けねばならない。あの頃は犬のうんちの黄金時代であった。当時の犬はその辺で好きに用を足し、飼い主はほったらかし。道端という道端が地雷原で、放課後に走り回れば誰かがかならず踏んだ。

踏んだやつは笑われ、鬼ごっこが始まる。次の日は笑ったやつが踏んだ。するとまた鬼ごっこ。年がら年中、僕らは鬼ごっこに明け暮れていた。そういえば、何気なく手をついたら、ぶにゅっとなったこともある。あの絶望的な感触は、数十年経っても手のひらが覚えている。

「もうやめて」娘が言った。顔が本気だった。

足の裏は休職中のセンサーだった

昔話はここまでにして、僕は裸足のまま芝生を歩いてみせた。

一歩ごとに足の裏が忙しい。乾いた芝のチクチク。木陰に入ったとたんのひんやりした湿り気。土のやわらかいところ、締まったところ。靴を履いているとき、地面はただの平らだが、裸足になると地面には表情があることがわかる。足の裏というのは実はとんでもなく高性能なセンサーで、靴の中で長いこと休職させられていただけなのだ。

そのうち妙なことが起きる。歩幅が伸びる。背すじが伸びる。しまいに走り出したくなる。

走った。

いい年をした男が、河川敷を裸足で走った。風が耳のわきで鳴り、芝が足の裏を叩き、体のどこか深いところで古いエンジンに火が入る音がした。ああ、これは知っている。体が言う。人類は数百万年こうやって走ってきたのだ。靴の歴史などたかだか数千年。あんなものは新参者である。開放感などという生易しいものではない。動物に戻る感じ、である。

うらやましがらせという最終手段

振り返ると、娘が呆れた顔で立っていた。靴を履いたままだ。

その顔があんまり冷ややかなので、僕は言った。子どもの頃はな、みんな裸足だったんだぞ。校庭も、砂利道も、なんなら川の中も。近所の溜め池で、ガラスの破片を踏んでざっくり切って、血がどくどく出たこともある。年上の子に担がれて帰ったら、おばあちゃんがびっくりしてたな。でも楽しかった。足の裏を怪我しながら、足の裏で世界を覚えたんだ——。

言いながら気がついた。これは説得ではない。自慢ですらない。ただのうらやましがらせである。そして子どもはうらやましがらせにだけは弱い。

娘は長いこと芝生をにらんでいたが、やがて木陰のいちばんやわらかそうな一角を選び、靴と靴下を片方だけ脱いだ。

片足立ちのフラミンゴのような体勢で、白い足の裏が恐るおそる芝に降りる。

「……ちくちくする」

「だろう」

「へんなの」

「だろう」

もう片方は脱がなかった。片足は文明に、片足は野生に。彼女なりの落としどころらしい。交渉の名手はこういうとき満額回答をくれない。それでも芝の上の白い片足は指をきゅっと丸めたり開いたりして、地面と何やら交信していた。足の裏のセンサーが何年ぶりかで起動した音が聞こえた気がした。

裸足で大地に触れるグラウンディング

グラウンディングという言葉がある。アーシングともいうが、裸足で大地に触れるといろいろ良いことがある。体のバランス感覚が向上する、脳の感覚野や小脳が活性化する。まだ研究段階だけれど、睡眠の質が良くなる、ストレスや炎症が軽くなるという効果もあるそうだ。

その日の帰り道、娘が上目遣いにこう言った。

「今度は両方とも脱ぐかも」

かも、である。次の交渉の余地を残す、見事な引き際だった。

太陽と風と土——。靴下一枚めくるだけで、世界はこんなに近くなる。地雷原を駆け回っていた昭和の子どもは、そのことを足の裏で知っていた。靴下の中の現代っ子にもいつか両足で知ってほしい。

うんちはもう落ちていないのだから。