雨天決行、居間にて——雨の日のおうちキャンプ

家キャンプ

朝六時、娘の「あー」という長い声で、僕はその日の天気を知った。

窓の外は雨。それも迷いのない降り方だった。娘と森へデイキャンプに行く約束の日だった。何日も前から娘はリュックに菓子を詰め、出しては詰め直していた。その娘がいま、カーテンを握ったまま、濡れた窓ガラスを睨んでいる。

「中止だね」僕が言うと、娘はこの世の終わりのような顔でうなずいた。子どもにとって、楽しみにしていた日の雨は天災である。振替も補償もない。

朝食のあいだ、我が家の気圧は低いままだった。娘は無言でパンをかじっている。僕は考えた。雨で流れたのは森である。キャンプまで流す必要がどこにあるだろう。

僕は押し入れを開けた。

テント、寝袋、ランタン、レジャーシート。休眠中のキャンプ用品を居間へ運ぶと、娘の眉が動いた。

「なにするの」

「開催する。雨天決行だ」

「どこで」

「ここで」

設営は難航した。なにしろ敷地が狭い。ポールをしならせるたび、先端が天井照明をかすめる。ソファは山脈という設定で寝室の壁際へ寄せ、テレビの前が炊事場になった。三十分後、十畳の居間に黄色いテントが堂々と完成していた。窓の外では本物の雨が降り、部屋の中では父娘が達成感に包まれていた。

ここからの娘の切り替えの早さは、見事というほかなかった。

寝袋を敷き、ぬいぐるみを次々に「入山」させ、ランタンを灯し、カーテンを閉めて「夜」を作った。昼食は当然テント内だ。中止で行き場を失っていた弁当がシートの上で開かれた。同じ卵焼きがテントの中ではごちそうになる。窓を打つ雨の音が、川のせせらぎの代役を務めていた。天気は使いようである。

午後いっぱい、娘はテントに出たり入ったりして過ごした。読書もテント、おやつもテント。あの黄色い三角の中では、なんでもない行為がぜんぶ「キャンプ」に変換されるらしい。

気象通報には続きがある。夕方、第二の前線が接近していた。

妻の帰宅である。

玄関のドアが開き、妻は居間に入るやいなや荷物を提げたまま静止した。十畳の真ん中に鎮座する黄色いテント。山脈と化したソファ。炊事場のテレビ。状況を三秒で把握し、こう言った。

「夕飯、どこで食べるの」

無粋だが正論である。食卓はテントの向こうに孤立し、妻が一人、座る場所すらない。

「片づけてよ」妻がテントを指さした。

「いやだ」娘がテントの前に立ちはだかる。「今夜ここで寝るの」

局地的な前線が発生するのを見て、僕は「まあまあ」と言った。夫婦生活うん十年で会得した、万能の緩衝材である。効果のほどは定かではないが。

結局その夜、夕飯はキャンプ用のアルミテーブルで済ませ、テントは撤収を免れた。そうして娘の宣言どおり、僕と娘はテントで寝た。妻は一人、いつもの寝室である。「よくやるわ」という声が、山脈の向こうから聞こえた。

消灯後のテントの中で、娘はなかなか寝つかなかった。天井の黄色い布を見上げながら、次のキャンプはどこへ行くだの、今度は星が見たいだの、ささやき声でしゃべり続ける。耳を澄ませば、雨はまだ窓を叩いている。中止になったはずの一日の、これが結末だった。

子どもをキャンプに連れて行くとき、僕らは自然を目的地だと考えている。川、山、星空。そのとおりなのだが、娘にとっての急所は、少しちがうところにあったのかもしれない。

ふだんご飯を食べる場所ではないところでご飯を食べ、ふだん寝る場所ではないところで寝る。そんな非日常の手ざわりこそが本体で、川や木や星は豪華な会場にすぎないのだろう。

だとすれば、会場は十畳でも開催できる。雨は森に行くのを中止にできるが、非日常まで中止にする力はない。

翌朝、テントの中で目を覚ますと、娘はまだ寝袋の中で丸くなっていた。居間の窓から雨上がりの白い光が差していた。あれから何年か経つが、娘は晴れた日のキャンプの話はあまりしない。雨の日の居間の話はいまでもする。