大豆ミートの擬態は、妻には通用しない——代替肉の実験記

大豆ミート

ビーガンというのは、ベジタリアンの上位資格だと思っていた。肉と魚に加えて、卵もだめ、乳製品もだめ。そこまでは知っていた。驚いたのは、蜂蜜である。

蜂蜜もだめなのだ。

最初は意味がわからなかった。あれは花の蜜ではないか。蜂はただ運んでいるだけではないか。

ちがうのだ。調べてみると、蜂蜜は花の蜜そのものではなかった。蜜はあくまで材料で、蜂はそれを飲みこんでは吐き戻し、体内の酵素で別の糖に作り変え、羽であおいで水分を飛ばして、ようやくあの一滴にする。なんのためか。冬を越すための巣の保存食である。

つまり蜂蜜というのは、花の蜜ではなく、蜂の加工品であり手料理なのだ。人間はそれを冬ごもり用の弁当ごといただいている。ビーガンの考え方では卵や乳と同じで、動物が作ったものに入るのである。

そう聞けば、唸るしかない。なるほど、蜂の身になればそうだろう。半世紀ほど生きてきて、僕は蜂の身になったことが一度もなかった。線引きの奥深さに勝手に背筋がピンと伸びた。

それで例によって、僕の実験好きの血が騒いだ。

大豆ミートである。いまの大豆ミートはすごいらしい。そう聞けば、試さずにはいられない。唐揚げ用を買ってきて、にんにくと生姜と醤油で下味をつけ、家族には黙って夕飯の皿に乗せた。

擬態作戦である。

娘は「ちょっとちがうけど、おいしい」と言って完食した。問題は妻だった。一口噛んで箸が止まった。二秒間の沈黙——。

「……大豆?」

一発だった。企業の研究者たちが何年もかけて磨き上げた擬態を、長年本物の肉を食べてきた舌は一口で見破ったのだ。

ただ、僕はこの大豆の唐揚げを笑い話だけでは終わらせたくない。

仕事柄、ビーガンやベジタリアンの方に取材で会ったことが何度かある。正直に言えば、昔の僕は心のどこかで「なぜそこまで」と思っていた。卵も蜂蜜もやめて、何がその人をそこまで連れていくのかと。

いまはこう思っている。人が食を選ぶ理由のぜんぶは他人には見えない。体の事情。切実な理由。祈りに近い何か。本人がそれを語らないだけで、皿の上には見えない事情が乗っているのである。僕自身、十年の闘病のなかでずいぶん変わった食べ方をしてきたが、その理由を初対面の人に説明したことは一度もない。

だから僕は、他人の皿に口を出さないと決めている。自分の皿のことだけ、うんと真剣にやる。

そう思って眺めると、あの大豆の唐揚げもちがって見えてくる。選ばざるを得ない誰かの食卓で、あれが今夜のごちそうとなる家がきっとあるのだ。擬態を磨き続ける研究者たちに頭が下がる。

我が家の実験は続く。

後日、今度は大豆ミートのハンバーグを焼いた。妻は皿が食卓に着く前に言った。

「大豆でしょ」

あっけなく見破られた。匂いでわかるらしい。

妻に隠し事はできないのである。大豆も。僕も。