バージンロードは遠い——マクロビ(玄米菜食)の罠

バージンロードを歩く父と娘

朝起きたら首が痛い。昼過ぎには胃がもたれる。夜は妙にいらいらする。医者に行っても「ストレスです」「運動不足です」と言われるだけ。

ある日、鏡をじっと見て驚いた。そこには実年齢よりずっと老け込んだ中年男の姿があったのだ。

——まずいぞ。このままいくと、娘の結婚式に参列できるかどうかもあやしい。

僕は決意した。健康的な食生活に切り替えることを。そのとき頭に浮かんだのは、いつぞや本で読んだことのある玄米菜食だった。

マクロビオティック

玄米菜食は、巷でマクロビオティックと呼ばれる自然食のことだ。ざっくり骨子を説明すると、食べ物のエネルギーを陰陽で捉え、玄米や野菜、豆類、海藻を中心に食べる食養ということになる。

肉、魚、乳製品はだめ。厳しめのベジタリアンに近い印象だったが、マクロビは単なる食事法ではなく、思想であり哲学だという。最近よく耳にする身土不二や一物全体という言葉もマクロビの思想の一部である。

食卓を変えることになるので、まずは妻に声高らかにこう宣言した。

「マクロビを始めることにした。君らの食事はこれまでどおり作るけど、主食は玄米に変えていいか」

妻が視線を漫画からこちらに移し、さっき僕が淹れたコーヒーをずずっと音を立ててすすった。

「私たちは白米で。玄米ってぼそぼそして苦手なんだよね。たぶんあの娘もいやがると思う」

「……はい」陰極まれば陽に転ずなどというが、いまのところ我が家の力関係にその気配はない。

挫折

その夜から僕は意気揚々と玄米を炊き始めた。

炊き方が良くなかったのか、初めて食べる玄米は妻が言うように少しぼそぼそしていたが、むしろそれが体にいいという感じがした。味噌汁は、昆布と干し椎茸で出汁を取った。マクロビではかつお節も煮干しもだめなのだ。副菜はひじき、切り干し大根、納豆である。

ところが早くも三日目の夜、最初の挫折を味わうことになった。

妻と娘が幸せそうにハンバーグを頬張っていたのだ。肉の香ばしい匂いとソースの甘ったるい香りが食卓に満ちている。僕の胃はぎゅるぎゅると騒がしい音を立て、呪詛と憤怒をまき散らす。

追い打ちをかけるように、娘が言った。

「パパ、ハンバーグ食べないの? かわいそう」

かわいそう……。もとはといえば、お前のためのマクロビなのだぞ。やりきれない気分になって、僕は研究を開始した。

精進料理

手始めに精進料理の本を五冊買った。禅寺の僧の調理動画もじっくり観た。すり鉢でごまをがりがり擦る音を聞きながら、娘をエスコートするためのこれは修行である、とみずからを鼓舞した。

まず挑戦したのは、ごま豆腐だ。

ごまをすり鉢で根気強く擦り、なめらかなペースト状にした。水と葛粉を加えて火にかけ、とろとろになるまで練る。塩を少しと酒を加えて風味を整え、型に流して冷ます。固まったら一口大に切って、醤油とわさび、白味噌だれでいただく。

恐るおそる口に入れたら衝撃を受けた。ぷるるんとした食感の中に濃厚なコクがあり、動物性たんぱくなしで十分な食べごたえがあった。

精進料理は修行だと思っていたが、素材の力を最大限に引き出す知恵だったのかと感心した。

次に試したのが、湯葉の煮物である。

干し湯葉を戻し、昆布出汁で煮る。椎茸、にんじん、葉物を加え、醤油とみりんとてんさい糖で味つけして、最後に柚子の皮を散らす。

食べると、肉の脂身のような満足感があり、これならマクロビを続けられると思った。動画で禅僧が「一物全体を丁寧にいただきましょう」とおごそかに話していて、食卓での心の在りようまで教わった。

その勢いのままに利休麩をごま酢であえた一品も作ってみた。揚げた麩の軽い食感とごまの香ばしさが楽しく、精進料理の世界の広さにますます惹かれていった。千利休にちなんだ由来にもロマンがあった。作っているだけで、何やら文化人になった気がした。

最初のうちは「これならいける」と本気で思っていたし、精進料理の奥深さにすっかりはまっていた。ただ毎日、食事の支度に手間と時間がかかりすぎていた。

そこで手軽に調理できそうな代替肉、大豆ミートを取り入れることにした。粒状のものでハンバーグを作ったり、唐揚げタイプを油で揚げてみたりしたら、それなりに満たされた。その半面、代替肉はあくまで代用品であり、肉への渇望を埋めるほどの力はないと気づき始めてもいた。

体の不調

二週間後、僕はふらりと立ち寄ったコンビニの肉まんケースの前で理性を失いそうになった。胃がぎゅるぎゅると騒いだ。慌てて店を飛び出し、一目散にうちへと帰った。

その夜、僕は台所の棚にあるカップ焼きそばを睨みつけ、五分ほど立ち尽くしていた。妻がそれを見て「終わりね」とつぶやいた。

僕は我に返り、「待てよ」と言ったが、妻は「わかるの。目を見れば」とだけ言い残し、テレビのリモコン探しに戻っていった。

数日後、体が答えを出した。

便秘でもないのになんだか体が重い。集中力も続かない。調べてみると、厳格な菜食ではビタミンB12やD、カルシウム、鉄分が不足しやすいという。とくにビタミンB12はほとんど動物性食品にしか入っていない。長く不足すると、疲れやすくなり神経にもさわる。

注意書きは始める前に読んでいた。急に変えず、体を見ながら少しずつ、と書いてあった。読んでうなずいて、きれいに忘れていたのである。

降参

僕はついに白旗を上げた。

「もう無理。肉、食べたい。魚、食べたい。卵、食べたい。玄米は嫌いじゃないけど、毎日はきつい」

妻が笑った。

「完璧にやろうとするから疲れるのよ」

確かに一理ある。妻が陽の日は、こちらが陰に回る。それだけで、うちはだいたい平和だ。だから僕は方向転換することにした。

完全にマクロビをやめるのではなく、自分に合う形にカスタマイズする道を選んだのだ。

バージンロード

基本は玄米と野菜が中心。でも週に三、四回は肉や魚、卵を食べてよし。グルテンフリーを意識して小麦も減らした。これが意外と良かったので、僕はこのあとグルテンフリーに本格的に参戦するのだが、それはまた別のところで書く。

大豆ミートも時々使うことにした。といっても代替肉としてではなく、副菜の一品として。ごまや海藻、発酵食品は積極的に食べる。

すると、体のだるさがすぐ消えた。それどころか、朝の首の痛みもほとんど消え、夜のいらいらは減り、仕事の集中力が上がったのだ。

そんな僕を見て妻が言った。

「まだまだ元気でいてくれないと。その調子なら、あの娘の結婚式も大丈夫そうだね」

「どうしてそれを?」驚いた。妻には何も言っていなかった。

「目を見れば、わかるの」

マクロビを試してみて良かったのは、食べ物や自分の体と向き合う姿勢が身についたことだと思う。陰陽の考え方は人間関係にも応用できる知恵だし、極端な健康法は続かないということも身に沁みてわかった。

玄米を炊きながら、時々はステーキを焼く暮らし——。それがいまの僕の落としどころだ。

夜中に台所の棚を覗き込み、カップ焼きそばと睨み合う癖はまだ完全には克服できていないけれど、娘とバージンロードを歩く日がいまから待ち遠しい。