橙色のそれ——夜陰に紛れてイクラを貪る中年女の影

イクラを貪る中年女

それは夜に現われる。

灯りを落とした、しんと静まりかえった台所。家族は皆、寝静まっている。そのはずだった。ところが冷蔵庫の扉がすうっとひとりでに開く。青白い光が闇に漏れ、ひとつの影をぼうっと浮かび上がらせる。

影は何かを取り出す。小さな容器。ふたをそっと開ける。中にはぬらぬらと光をはじく橙色の粒。

そして、むしゃむしゃと一人、頬張り始めるのだ。

弾ける。弾ける。口の中でいくつもの粒が次々と弾けていく。その音だけが夜の家にひそやかに、しかし確実に響きわたる。スプーンなど使わない。そんな悠長なことはしていられぬとばかりに、容器に直接口をつけて流し込む。影は止まらない。誰にも見られていないと信じきって、ただひたすらに夢中でそれを貪りつづける——。

これは僕が実際に目撃した、まぎれもない事実である。

影の正体は妻だった。

妻はイクラに目がない。回転寿司へ行けば、まず三皿は連続でイクラを取る。皿の色など確かめもしない。娘を身ごもっていたあいだでさえ、せっせと食べていたというのだから年季が入っている。

ところが、その腹から生まれてきた娘がよりにもよってイクラのアレルギーだった。それも生やさしいものではない。寿司屋に行っただけで、顔がぱんぱんに腫れ上がってしまったことすらある。隣で誰かが食べているだけで、体が反応してしまうのだ。

つまり、我が家の食卓にイクラは出せない。妻は昼日なかに堂々とあの橙色を愛でることを禁じられたのである。

しかし好きなものは好きなのだ。理性ではどうにもならない。

かくして妻は、夜陰にまぎれることを覚えた。娘が寝静まり、家中の明かりが消えるのを待って、そっと冷蔵庫の前に立つ。誰にも知られず、誰にも迷惑をかけず、闇の中でただ一人、ひそやかに好物を貪る。

これを背徳と呼ばずして何と呼ぼう。愛ゆえに堂々とは食べられず、それでもあきらめきれずに夜ごと冷蔵庫の前にうずくまる中年女。もはやちょっとした悲恋である。

好物を前にした人間というのは、ときにどんな幽霊よりも怖く、そして哀しい。

その夜、僕が明かりをつけて声をかけると、影はびくりとして振り返った。口の周りを橙色に光らせ、頬に一粒、勲章のようにくっつけたまま。それから悪びれるでもなく、世にも幸福そうな顔で一言、こう言ったのだった。

「……食べる?」

僕は黙ってスプーンを取りにいった。共犯者になることにしたのだ。