一日一食、ただし味見は除く——実践記と、腹が鳴る本当の理由

味見する父

一日一食をやっていた。そう言うと大抵の人に驚かれる。よく我慢できますね、と。

ちがうのだ。我慢でやれるものではない。いきなり一食に減らせば、たぶん三日で挫折する。僕は三食から二食へ、二食から一食へと、段階を一段ずつ登っていった。登山と同じで、高い山には高度順応がいる。富士山の麓から頂上まで一気に駆け上がる人はまずいない。胃袋もそれとまったく同じなのだ。

まず朝食を抜いた。二食時代である。最初の数日は十時前から腹が鳴った。ところが一週間もすると鳴らなくなった。ここで僕は大発見をする。腹を鳴らしていたのは、胃ではなく時計だったのだ。十時に鳴る腹は、空腹ではなく習慣である。長年、僕は時計に飯を食わせていたらしい。

順応が済んだところで昼食も抜いた。頂上アタックだ。体が軽くなった気がした。頭が冴える気もした。気のせいかもしれない。でも、本人が快調ならそれでいいのだ。

問題は別にあった。

僕は食べない。だが作るのだ。妻と娘の食事と弁当は、変わらず毎日僕が作る。空腹の人間を台所に立たせるとどうなるか。鼻が利きすぎる。炊きたてご飯の湯気は暴力であり、味噌汁の香りは犯罪である。

ここに味見という問題が浮上する。

味見は食事なのか。僕の見解は、調理行為の一部である。煮物の味を確かめずに食卓へ出すのは、作り手として許されない。あれは食事ではない。品質管理だ。
妻の見解はちがった。小鍋の前に立つ僕を一瞥して一言。

「立ち食い」

心外である。

それでも一日一食には、やってみなければわからない発見があった。夕飯が一日の頂上になるのである。数を減らしたら、一食が濃くなった。家族と囲む膳の一口めの味。湯気の向こうの娘の顔。あの頃の僕は、「いただきます」を生まれて初めて本気で言っていた気がする。

なお、妻の集計によれば、当時の僕は一日四食だったらしい。朝の味見、昼の味見、夕方の味見、そして夕飯。

反論はしないことにした。出汁がうまいのが悪いのだ。