白状すると、この年になっても外で日本酒をうまく頼めない。
家ではいっぱしの日本酒通を気取って飲んでいる。燗の温度がどうの、米の磨きがどうのと家族相手には講釈も垂れる。ところが店の暖簾をくぐったとたん、だめになる。
先日も神田の古書店街をぶらぶらした帰りによさそうな店を見つけて入った。カウンターの向こうに書道の達人が書いたとしか思えない品書きが並んでいる。読めない銘柄が三つあった。雑誌の編集をやっていた人間がだ。漢字には強いほうだという自負が、達筆の前で音を立てて崩れた。
仕方なく、読める銘柄を頼んだ。
「それ、お燗にもできますが」
「あ、じゃあ……ぬるめで」
ぬるめ。家ではあれほど「人肌燗」だの「日向燗」だの言っているのに、出てきた言葉は「ぬるめ」。隣の客が「上燗で」と涼しい顔で言うのが聞こえてきて、僕は猪口を持つ手に変な力が入った。
なぜ家では言えるのに、店では言えないのか。
帰り道に考えた。たぶん、試験だと思っているからだ。店の主人を試験官だと思い、銘柄の読みで一問、温度の注文で一問、採点されているような気になっている。まちがえたら「ふん、素人か」と思われる。勝手にそう思い込んでいる。
ばかばかしい。主人は採点などしていない。していないとわかっているのに、言えない。見栄というのは、わかっていても脱げない服なのだ。
そういえば祖父は、店で堂々としていた。難しい銘柄など知らなかったと思う。「熱いの」「冷たいの」の二択である。それなのに店の大将や女将、他の客たちにも軽口を叩いて笑わせ、誰よりもうまそうに飲んでいた。あの風格と磊落さは知識から来ていたのではない。
僕は知識が増えたぶん、舌より先に頭で飲むようになったのかもしれない。品書きを読みながら、味ではなく正解を探している。日本酒に正解なんかないのに。
次の週、もう一度同じ店に行った。
例の読めない銘柄をいくつか指さして、言った。
「すみません。これ、なんて読むんですか」
「ああ、みんな読めないの」
主人は笑って、由来まで教えてくれた。
木礫は、こだま。白籟は、はくらい。幽汐は、かすみ。風礫は、かざおと。そんなふうにして、主人からひと通り話を聞いたあと、僕は目の前の棚にある「水脈」を指さして言った。
「じゃあ、最初はそこのすいみゃく にしようかな」
「はいはい。ちなみにそれ、みお 。みんなまちがえるの。まったくねえ、パッと見て、パッと読めないやつは、ふりがな振っとけって言うの」
主人が呵々と笑う。
隣で静かに飲んでいた、先日「上燗で」と言っていた常連らしき客が顔をしかめた。
「俺も三年通って先月知ったの」
なんだ。試験官などどこにもいなかったのか。いたのは、読めない字を肴に飲んでいる人たちだけだった。
その夜は「ぬるめ」と言わずに済んだ。なんと頼んだかは、たいした話ではないので書かない。ただ、帰り道の足取りがいつもより軽かったことだけ、書いておく。
はやま
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