味噌汁が決まらない日は、心も決まらない

味噌汁を作る父

長年、台所に立ってきてわかったことがある。

味噌汁の味がぴたりと決まった日は、その日一日うまくいく。決まらない朝は、何をやってもだめである。

迷信だと笑われるかもしれない。だが統計がある。母数は僕、観測期間は十数年。サンプルに偏りがあることは認めるが、棄却できるならしてみてほしい。味噌汁ほど、ごまかしのきかない料理はない。

材料は出汁と味噌と具。たったそれだけ。レシピも何もない。それなのに同じ味噌、同じ出汁、同じ豆腐とわかめで作っても、今日と昨日で味がちがう。レシピサイトには載っていない変数が、どこかに隠れている。

長年の観測の結果、その変数の正体がわかってきた。

僕だった。

急いでいる朝の味噌汁は、味がとがる。沸かしすぎるからだ。味噌を入れる前に火を止めておかないと、香りが飛んで角が立つ。わかっていても急いでいる日は火を消し忘れる。

鍋は人間の足元を見ている。

考えごとをしている朝の味噌汁は味がぼやける。味見を二回するからだ。一回目で「薄いか?」と思い、味噌を足す。二回目で「濃いか?」と思って湯を足す。心が定まっていない人間の味噌汁は、味も定まらない。当然である。鍋の中で優柔不断を煮ているのだから。

機嫌がいい日の味噌汁は、文句なしにうまい。理屈はない。ないが、うまい。

つまり味噌汁というのは、毎日の健康診断なのだ。体温計より正確に、その日の僕を測っている。問診もレントゲンもなしに、椀一杯で「今日のあなたはとがっています」と告げる。

ある日、見事に味が決まらなかった。とがってもいないし、ぼやけてもいない。でも何かが足りない。出汁はちゃんと取った。味噌もいつもの蔵のものだ。具の油揚げも油抜きした。完璧なはずだった。

首をかしげながら食卓に出すと、妻が一口すすって言った。

「はあ、おいしい」

「いや、ちょっとピンボケしてるだろ」

「十分おいしいって」

「いやいや、今日のは八十点だよ」

「八十点で文句言う人、初めて見た」

娘も一口すすって、母親と顔を見合わせ、黙ってうなずき合った。面倒くさいから放っておこうと言っているのだ。

だがその日、僕は気づいてしまった。八十点だのなんだのと言いながら、家族がおいしそうに汁椀をからにする。それを眺めているうちに、足りなかった何かがすっと埋まった気がしたからだ。

味噌汁の最後の変数は、作り手の機嫌ですらなかったのかもしれない。

誰かがいつもの顔で飲んでくれること。毎日それが確認できること。考えてみれば、味噌汁というのはこの国で千年以上、その確認のために椀に注がれてきたのではないか。

翌朝の味噌汁は、決まった。

理由はわからない。わからないが、その日は一日うまくいった。統計に、また一行追加である。