アボカドの食べ頃を、なぜいつも見誤るのか——量子力学と待つことと妻の打率

アボカド

スーパーの野菜売り場で、僕はアボカドを前に真剣に悩んでいた。

軽く握ってみる。硬い。いや、心持ち弾力があるような気もする。 ——まだ早いか、それとも今夜あたりが限界か……。

食のプロとして、ぬか床の乳酸菌の機嫌は見極められる自信がある。だが、アボカドの食べ頃だけは打率が五割を切る。

意を決して二個買って帰り、台所で包丁をパカッと入れてみる。

ガチガチだった。

白い食器に盛りつけられることもなく、スプーンできれいにくり抜かれることも拒否したアボカドの硬い果肉を前にして僕は思う。現代人はボタンひとつで映画を観て、検索ひとつで答えを知る。世界を自分の都合のいいスピードにコントロールしているつもりでいる。

それなのに、この中米生まれの果実だけは、頑なに僕の都合に合わせようとしない。切ってみるまで、熟しているかどうかがわからない。それはまるで観測するまで位置が確定しないという、あの量子力学の実験のようだ。

いや待て。量子力学の理屈だと、確か観測者の意志が結果に影響を与えるという話だった。かりにそうなら、「このアボカドはベストな熟し具合である。南無南無」とでも強く念じながらカットすれば、その通りになるのではなかろうか。

南無南無拝んで験なし

二個目のアボカドに包丁を当て、「……南無南無」と言いながら、半分に割ってみた。

ガチガチだった。

僕は早すぎたアボカド二個をそっとラップで包みながら、かつて人間が持っていたはずの「ままならない時間を、ただ待つ」という、あの豊かな手持ち無沙汰について考え始めていた。

すると背後から「また外したの?」と声がした。妻である。

彼女は、キッチンカウンターに積み上げた「紙の地層」から平成の請求書を発掘するような豪快な人だが、なぜかアボカドの選別においては百発百中、神がかった打率を誇る。

「ちょっと貸して」

妻は、ラップの上からアボカドを親指で軽く押した。

「ああ、これはあと二日。バナナの横に置いておくといいよ」

そう言い残し、またリモコンを探しにリビングへ消えていった。

バナナの横に置く。バナナが出すエチレンガスが、アボカドの熟成を促すと聞く。科学的な理屈はわかる。だが、台所の片隅で黄色いバナナと黒緑のアボカドがじっと沈黙している様子を見つめていると、なんだかひどく厳かな気持ちになってくる。

現代の僕たちのまわりからは、待つという時間が徹底的に排除されている。スマホの画面をスクロールすれば一瞬で新しい情報が手に入り、ネット通販で頼んだものは翌日には玄関に届く。

すべてが予測可能で効率的で、人間の都合に合わせたスピードで世界が回っている——ような錯覚に陥る。

アボカドはちがう。どれほど人間が焦っても、効率を求めても、彼らはみずからの内なる時計に従って、細胞をひとつずつ柔らかくしていく。早く食べたいからといって、念じても早くは熟さない。切ってしまえば元には戻らない。

ままならないものとつき合うとき、僕たちは初めて自分の傲慢さに気づかされる。

ぬか床も同じだ。

「明朝、最高においしいなすが食べたい」と人間が願ったところで、乳酸菌たちが「よし、今夜は残業して急いで醸すか」なんて言ってくれるはずもない。彼らには彼らの時間があり、都合がある。僕らにできるのは、ただ環境を整え、彼らの時間を邪魔しないように静かに待つことだけだ。

ままならぬものにこそ、人生の味わいはひそむ

二日後の朝——。

バナナの隣からアボカドを救出し、二つに割ってみた。ところがである。切り口が黒ずんで、どろどろになっていた。

そこへまた妻が現われた。

「あ、そっか。そういえば、一度切ったらもう熟さないんだった」

スマホで調べてみると、アボカドは一度刃を入れてしまうと、追熟の時計が永遠に止まってしまうらしい。いくらバナナの横に置こうが、二度とあのバターのような質感には戻らない。

「……じゃあ、これどうするの」

「炒めるか、揚げるしかないね」

妻はそのまま買い物に出かけていき、台所には黒ずんだ二つのアボカドと僕だけが取り残された。しばらく途方に暮れていたが、その日の夕飯にささみを揚げるつもりだったことを思い出し、アボカドも一緒にフライにすることにした。

二時間後、書斎で仕事をしていると、妻がドアをノックした。

「はい、これ」

見かねた妻が、完璧なアボカドを買ってきてくれたのだ。僕の大好きなゴールデンキウイとともに。

さっそく台所へ行き、アボカドを包丁でパカッと割ると、中心には見事な淡いグリーンと、バターのように濃厚な質感の果肉が待っていた。百発百中、神業である。

「お、完璧じゃん」のぞき込んできた妻が、当然のようにその半分をスプーンですくって口に運ぶ。「うん、おいしい」

残されたもう半分の完璧なアボカドを、僕はわさび醤油につけてじっくりと味わった。

僕らはいつも、何かをコントロールしたがる。健康も時間も未来も、自分の思い通りにプログラムしたくなる。

けれど人生の本当の味わいというものは、アボカドの食べ頃や、ぬか床の熟成や、あるいは妻の気まぐれのように「ままならないものを、ただ待つ」という手持ち無沙汰のあとに、ひっそりと差し出されるものなのかもしれない。

そんなことを考えていたら、ゴールデンキウイが目に留まった。あのさわやかな酸味を想像したら、それだけで生唾が出た。

切ってみた。

ガチガチだった。