神さまになる予定だった椅子が、今朝、捨てられかけた

付喪神

我が家には、神さまになる予定の道具がいくつかある。

そう言うと妻はいやな顔をする。彼女にとってそれらは神さま候補ではなく、粗大ゴミ予備軍だからだ。

付喪神という言い伝えが日本にはある。道具は百年使うと魂が宿り、化けるのだという。「付喪」は「九十九」で「つくも」と読む。百年にひとつ足りない歳月を経た器物が、精霊を得る。古い絵巻物にも描かれた、れっきとした……なんだろうか。信仰と呼ぶには冗談めいていて、冗談と呼ぶには真剣な日本人独特の何かである。

僕はこの考え方が好きだ。だから捨てられない。学生時代から使っている椅子。結婚したときに買った片手鍋。座面は破れ、鍋の取っ手はぐらつく。だが彼らはまだ道半ばなのだ。

季節の変わり目になると、我が家には断捨離の嵐が吹く。今朝もそれが来た。

「この椅子、捨てるから」

「待ってくれ。それはあと六十年で神になる」

「ならせない」

取りつく島もない。僕は学術的に反論を試みた。『付喪神絵巻』には、こういう物語が描かれている。

年末の煤払いで捨てられた古道具たちが「長年ご奉公したのに、ろくに供養もされず捨てられた」と怒り、節分の夜、そろって妖怪に化けて人間に仕返しをするのだ。

「だから捨てると化けて出るぞ。室町時代からの警告だ」

「化けて出たら、それも捨てる」

強い。妖怪より妻のほうがよほど強い。

横で聞いていた娘がぼそっと言った。

「パパのそれ、神っていうか、ただのゴミじゃない?」

我が家の第三国は、今日も外交的に手厳しい。

でも考えてみてほしい。なぜご先祖は、こんな物語をつくったのか。捨てられた道具が怒って化けて出る——。そんな話をわざわざ絵巻にまでしたのか。

たぶん、ものを捨てるとき、胸の奥がちくりとする。あの感覚に名前と姿を与えたのだと思う。長く使ったものには、思い出という名の魂が確かに宿っている。捨てるときの後ろめたさが、その証拠だ。

八百万の神さまの正体は、案外そういうものなのかもしれない。畏れではなく、愛着。教義ではなく、後ろめたさ。僕らのご先祖は、ものを大切にする心に神さまという名前をつけたのだ。

その夜、僕は椅子をこっそり物置の奥に隠した。

「隠しても無駄だからね」

台所から声がした。

千里眼である。

この家でいちばん神さまに近いのは、たぶん妻だ。