五千年の重みにむせ返る。——ごまと三世代のすり鉢の話

ごま

ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ——。

あの音を聞くと思い出す。着物に割烹着姿の祖母は、よく台所ですり鉢を抱えていた。すり鉢の底で、ゴリゴリとごまが砕け散る鈍い音が響く。

子どもの頃、苦手だった。胸の奥に重く沈んでいくような気がして、祖母の割烹着に抱きつき、顔をうずめてはごますりの邪魔をしていた。

実家の台所でも、母がよくごまをすっていた。青菜のお浸し、白あえ、きんぴら、生姜焼き……。毎日のようにごまの香りが漂っていたような気がする。祖母から母へ、自然に受け継がれた手つきだったのだろう。

僕もごまは嫌いではない。ただ、すり鉢はあまり使わない。必要なときは、冷蔵庫からごまのペットボトルをさっと取り出し、料理にふりかけてまたしまう。便利さに甘えているだけなのだが、どこか後ろめたい。

日本の台所になくてはならない存在だ。日本だけではない。なにしろ五千年前から世界を旅し続けてきた食材なのだから。

シルクロードを越えて、世界を旅してきた

原産地はアフリカ、あるいはインド亜大陸という。最古の栽培記録はおよそ五千年前。古代メソポタミアやエジプトの人々はすでにごまを育て、絞り、食べていた。

乾いた風にも負けず、砂の上でもしぶとく育つ。長い旅にも耐え、絞れば油が取れる。そのまま食べても栄養価が高い。だからこそ、ごまはキャラバン隊の荷に選ばれた。砂漠を越え、オアシスを渡り、商人たちとともに世界を移動していった。

古代エジプトの医学書には薬としての記録が残り、中国の古い書物にも登場する。『アリババと40人の盗賊』の「開けごま」のかけ声にごまが出てくるのも、当時の中東でごまが重要な食材だったからだと聞いた。

小さな粒は、文明の縁を渡り歩いてきたのだ。

奈良時代に、日本へ到達

日本で本格的に栽培が始まったのは奈良時代とされる。その後、禅宗の伝来とともに精進料理の中心食材となり、肉や魚の代わりにたんぱく質や脂質を補う役割を担った。

江戸時代には庶民の食卓にも広がった。ごま豆腐、ごま和え、ごま塩などが日常的に食べられるようになった。お寺や民家の灯りにも、ごま油が使われた。人類と火の歴史はゆうに百万年を超えるが、その一端をごま油が照らしていたと思うと、ちょっぴり胸が熱くなる。

食材として、薬として、燃料として——。ごまは世界のあちこちで、黙って働きつづけてきた。

白と黒と、幻の金

ごまは大きく分けて三種類ある。

白ごまは香りがやわらかく甘い。和食との相性がよく、日常使いの中心になる。黒ごまは香りが強く、コクがある。おはぎや赤飯に散らすだけで、料理の格が上がる。金ごまは希少品だ。 白より甘くて、香りが際立つ。市場に出回る量が少なく、幻のごまと呼ばれることもある。

栄養面ではごまはカルシウム、ビタミンE、鉄分、ビタミンB群などが豊富だ。セサミンという名をよく耳にするが、あれは抗酸化作用を持つリグナンの一種である。

薬膳では白ごまは腸をうるおし、黒ごまは腎を補うとされている。毎日ひとつまみを習慣にする人も少なくない。母の「体にいいから食べなさい」は、あながちまちがいではなかったようだ。喉に張りつくからそのままがいいと訴えたとき、すらないと栄養が吸収されにくいと言っていた。あれも正しかった。粒のままでも香りは楽しめるが、消化されにくい。毎日少量のすりごまを味噌汁やおひたしに加えるだけで、体は自然と整っていく。

三世代のすりごま器

実家には、赤いすりごま器があった。食堂などによく置いてあるハンドル式のものだ。ハンドルを回すと、内歯がごまを砕いてくれる。すりごまを少量追加したいとき、祖母も母もこちらを使っていた。わが家の食卓にも同じものがある。

ごまは砂漠を越え、海を渡り、お寺の台所を経由し、江戸の庶民の食卓にやってきた。そうして祖母の手から母の手へ、母の手から僕の手へと受け継がれた。

そんなことを思うと、ただのごまが急に気高く奥深いものに思えてくる。

五千年の重みを感じて、喉を詰まらせる

ひさしぶりに赤いごますり器を使ってみたくなった。食器棚から取り出し、ごまを入れてハンドルをぐるぐる回す。小松菜のおひたしの表面に、少し黄ばんだ粉雪が降り積もる。

五千年の旅の果てに、いま僕の手元にある小さな粒。時間と距離の重みを感じながら一口頬張ったら、喉に張りついて盛大にむせ返ってしまった。むせながらふっと笑ってしまう。祖母も母もきっと、こんなふうにむせたことがあっただろう。

ごまは今日も、我が家の台所で旅を続けている。