豆腐礼賛——白い沈黙の食べ物

ひややっこ

文藝春秋が編んだ『現代日本文学館』という、古い文学全集がある。

編集者は小林秀雄。近代から戦後にかけて活躍した主要作家を一人一冊でまとめたものだ。僕のデスクの前の書棚には、そのいくつかが歯抜けの状態で並んでいる。古本屋で見かけるたび買っていたのだが、全部で43巻ある。おそらく、死ぬまでに全巻そろうことはない。

冷や奴をつまみに一杯やりながら、背表紙の作家の名を見てぼんやり考える。太宰なら豆腐をどんなふうに描写するだろうか。

 私は豆腐が好きだ。好きだと言い切ってしまって、少し恥ずかしくなった。あなたは笑うかもしれない。豆腐が好きなどと。それだけのことで、なぜこんなに胸が痛いのだろう。

 豆腐というものは安い。そうして白い。私のような人間にはふさわしいと思う。豆腐は主張しない。鰹節に寄りかかり、醤油に寄りかかり、それでいてたしかに存在している。いっそ見習いたいとも思うが、私には真似できない。寄りかかることは得意なのに存在することがからきし下手なのだ。

 崩れやすいくせに妙に芯がある。木綿豆腐のことを言っているのか私自身のことを言っているのか書いているうちにわからなくなった。

 残りの半丁を翌朝まで忘れていた。

やはり自己嫌悪がにじむだろう。漱石ならどう書くだろう。

 豆腐というものは偉い。これほど自己主張をせず、これほど他者の味を引き立て、しかも独立して存在し得るものが他にあるだろうか。西洋人はステーキだのチーズだのと騒ぐが、あの連中は主張が強すぎて胃が疲れる。私の胃は豆腐のような人間を求めている。

 豆腐に生まれるとはどういうことか。大豆として生まれ、磨り潰され、固められ、切られ、食われる。それを「一生」と呼んでいいのかどうか。

 西洋帰りの自分が結局こういうものに落ち着くのだから、文明開化とは何だったのか。

胃潰瘍の漱石は、豆腐に文明論を見た。それなら三島は? 死か宿命か。

 完璧な白さであった。いかなる妥協も夾雑物もその白さを汚してはいなかった。

 木綿の荒い肌理の上に漂う僅かな水は、まるで白磁の器の上に結んだ朝露のごとくこの脆弱な物体の清潔さをかえって際立たせていた。

 指で押せば抵抗なく沈む。しかし崩れない。その一線の手前で豆腐はかろうじて自己の輪郭を保っていた——それはあたかも滅びを予感しながらもなお形を持とうとする或る種の意志の表れのようであった。

 包丁が入る瞬間、私は目を閉じた。断ち切られることではじめて豆腐は完成する。美とは常にそのようなものではないか。

豆腐は、四季の風物詩

薬味をたっぷりと乗せた冷や奴は、食べ物というよりもはや夏の風景である。

白い豆腐の上に刻みねぎ、おろし生姜、かつお節、それから醤油をひとたらし。冷たいまま口に運ぶと、舌の上でふるりと崩れて、口の中に広がる。見た目も凛として涼しげである。

冬になると、土鍋で湯豆腐を炊く。あれもまた冬の風景のひとつだろう。

鍋の中で豆腐が踊るかすかな音、立ちのぼる大豆の甘い香り——。ねぎをたっぷりと入れ、かつお節を醤油に浸した土佐醤油で、はふはふと言いながらいただく。体が芯から温まり、風邪を引いていても食べられる。いや風邪の日こそ、なぜか無性に食べたくなる。

そういえば小さいころは、豆腐売りがリヤカーを引いて近所までやってきた。ラッパの音がすると、母が勝手口からつっかけを履いて慌てて出ていく。片手にボウル、もう片方の手にはお財布を持って。懐かしい昭和の原風景である。

一年中、豆腐を食べている

三日に上げず豆腐を食べている。

ゴーヤーチャンプルが大好物である。夏場、週に一度は作る。豆腐を水切りし、ゴーヤーを豚バラと卵、かつお節で炒める。初めて食べたのは沖縄だった。それから我が家の定番となった。麻婆豆腐は家族全員が好物だ。市販の素は使わない。甜麵醤と豆板醤で作る。味噌汁にも豆腐は欠かせない。豆乳は毎日飲んでいる。

冷や奴、湯豆腐、ゴーヤーチャンプル、麻婆豆腐、味噌汁、豆乳……。これほどバリエーション豊かで、毎日食べても飽きのこない食べ物が、他にあるだろうか。

よく考えたらあった。卵だ。毎日食べている。

江戸時代のベストセラーは、豆腐の本

江戸時代の料理本に、『豆腐百珍』という本がある。1782年(天明2年)の刊行で、豆腐料理を百種類以上紹介した本だ。当時ベストセラーになり、続編や類書まで次々と出版されたという。

百種類。それだけの料理に化けることのできる食べものが、他にあるだろうか。

ある。卵だ。豆腐以上にいろんな料理に化ける。

太宰が言うように(言ってない)、豆腐は主張しない。色、味、香り、どれも静かだ。しかしだからこそ、合わせるものによって無限に変化することができるのだ。これほど懐の深い食材を僕は知らない。

さしもの卵もここは豆腐に一歩譲るだろう。

白という美意識

日本人は、白いものが好きだ。白米、豆腐、豆乳、大根、白身魚、かぶ——。白い食べ物への愛着は、ある種の美意識に根ざしているような気がしている。余計なものを削ぎ落としたあとに残る、静かな何か。引き算の美、とでも言えばいいのか。

豆腐が精進料理の中心的な食材になったのも、この白さと無関係ではないと思う。清潔で、潔く、雑味がない。禅の美意識と、どこかで響き合っている。

大豆一割、水九割

豆腐の材料は、大豆とにがりと水、それだけだ。重量の八、九割は水でできている。

以前、仕事でうまい湧き水のある地域を取材したことがある。山あいの集落や、浅井戸を掘るだけで清冽な地下水が湧き出る土地を訪ね歩いた。そのとき地元の数軒の豆腐屋にも話を聞いた。

はやま

お豆腐屋さんって、きっぷのいい方が多くて、どこへ行ってもお土産をたくさんいただきました。絹豆腐、木綿豆腐、焼き豆腐、油揚げ、おぼろ豆腐……。まあぜんぶ豆腐です(笑) 持ち帰るのが大変でしたが、家族は喜んでいましたね。

取材で、あるご主人がこう言った。「うちの豆腐がうまいのは、水がいいからだ」

九割が水でできているなら、水の味が豆腐の味になる。単純な話だが、すとんと腹に落ちた。

千年以上、日本の食卓にある

豆腐が日本に伝わったのは、奈良時代から平安時代のことだという。遣唐使の僧侶が持ち帰り、精進料理の要となった。その後、禅宗の広まりとともに庶民の食卓へと根づいていった。

決して華やかではないし、主役になることもほとんどない。けれど豆腐が日本の食卓から消えたことはない。漱石が言うように他の食材の味を引き立てながらも独立して存在する気高さがあり、三島が言うように美しく、太宰が言うように家計にもやさしいからだろう(言ってない)。

忙しい日こそ、白い豆腐の静けさが心に沁みいるものである。

さて、今夜は冷や奴にしようか、それとも湯豆腐か。

——卵豆腐にしよう。