味見という名の犯行――ある常習犯の言いわけ

味見する父

先日、唐揚げ失踪事件について書いた。あれは結局、事件ですらなかったわけだが、書きながら僕はある事実から目を背けていた。

この家には本物の常習犯がいる。僕だ。

犯行は毎夕、台所で行なわれている。手口は単純だ。おかずが完成に近づく頃、菜箸で少しつまんで口に運ぶ。世間ではこれを味見という。美しい言葉である。作り手としての責任感。プロとしての姿勢。僕は長年、味見という言葉の陰に隠れてきた。

でも今日は洗いざらい話そう。

まずはっきりさせておきたいのは、一口目は正当な調理手順ということである。塩加減、火の通り、味のまとまり。これを確かめずに食卓へ出すのは無責任だ。一口目に罪はない。

問題は二口目からなのだ。

二口目の名目は、確認である。一口目で「ん、うまいな」と思う。すると心のどこかで声がする。

——本当か? もう一度確かめるべきではないか?

科学の基本は再現性である。僕は科学に忠実な男だ。だから、もう一度つまむ。

——うまい。再現された。よし。

三口目は、感動の再確認だ。二度うまかったものが三度目もうまいとは限らない。これが僕の立場だ。この立場に学問的根拠はないけれど、菜箸はすでに動いている。

四口目からは、名目が消える。あるのは肉じゃがと僕、それだけ。

こうして鍋の中の様子が変わっていく。気がつくと、肉じゃがの肉が数切れしかない。里芋の煮っころがしが隙間だらけになっている。とりわけ被害が深刻なのは弁当のおかずである。夕飯のおかずは完成すればすぐ食卓に運ばれるからまだいい。弁当のおかずは粗熱が取れるまでのあいだ、調理台の上で無防備な姿をさらしている。

ある日、きんぴらを作った。いつもよりうまかった。それがいけなかった。

味見をする。うまい。次は確認。うまい。感動の再確認。うまい。気がついたら、弁当箱のきんぴら区画を埋めるにはぜんぜん足りない量になっていた。僕は心の中で娘に手を合わせた。すまん。それから何食わぬ顔で冷凍ブロッコリーを温め、きんぴらの隣に詰め込んだ。

しかし、ここまでならまだ言いわけも立つ。量が減っただけだ。

全滅させたこともある。弁当用に作った一品が、味見に次ぐ味見の果てに消えてしまった。皿の上には何もなかった。僕は菜箸片手に呆然と立ち尽くしていた。台所の壁掛け時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえた。仕方がないから、それからもう一度、同じものを作った。失敗したから作り直す料理人はいても、食べ尽くしたから作り直す料理人は僕くらいのものだろう。

なぜ味見は止まらないのか。長年の犯行を通じて、僕はひとつの真理に行きあたった。

台所で立ったままつまむ一口は、食卓で食べる一口よりうまいのである。

まずは揚げたて、炒めたて、煮えばなであること。料理がもっとも輝く瞬間に立ち会えるのは、料理人の特権だ。それと立ち食いという行為に潜む、わずかな背徳感。まだ誰のものでもない料理を先に口にする後ろめたさ。これが絶妙な隠し味になる。

つまり毎日料理を作る人間には、報酬が出ているといえる。給料日は毎夕。支払いは現物。実によくできた制度だと思う。この報酬があるからこそ、明日もまた僕は台所に立てるのだ。

というわけで、僕は更生するつもりなどさらさらない。

ただし常習犯にも一分の仁義はある。全滅させたら作り直す。量が減ったら、隙間は他で埋める。食卓に並ぶ頃には、何事もなかったような涼しい顔を心がける。犯行は続く。しかし被害者は出さない。それがこの道うん十年の流儀である。

今日も台所で菜箸がせわしなく動く。

一口目は品質管理。

二口目からは、僕の給料だ。