食卓の容疑者たち——唐揚げの失踪と、百グラムの真実

スイカを食べる家族

事件が発覚したのは、木曜の早朝だった。

前の晩、僕は唐揚げを三個、タッパーに取り分けておいた。むろん翌日の弁当用だ。揚げたてを食卓に出す前に確保しておいた。

その三個が消えた。

冷蔵庫を開けたら、弁当用のタッパーをいつも置いている中段、コーヒーキャニスターの隣にぽっかりと空いた空間があった。朝の台所に静かな衝撃が走った。弁当箱は唐揚げの空間を残して埋まっている。米も炊けている。主役だけがいない。

我が家には前例があった。プリン失踪事件。あの一件は結局、うちに住み着いている貧乏神の仕業として処理された。だが今回はプリンではない。弁当の主役だ。泣き寝入りはできない。

僕は捜査を開始した。

——第一容疑者、妻。

深夜の冷蔵庫に出入りする姿がちょくちょく目撃されている。大好物のイクラを薄暗い台所で一人、手づかみで頬張っていたあの一件もある。しかし朝食の席での取り調べに対し、妻は落ち着き払ってこう供述した。

「唐揚げ? 知らない。私、ゆうべはイクラ食べてた。イクラがあったら他のものなんて目に入らないよ。魚卵と油物って食べ合わせ悪そうだしね」

一理ある。ゴミ箱を確認したら、醤油漬けのイクラの空容器が出てきた。二百五十グラム入り。これを一度に食べたなら、確かに唐揚げなど見向きもすまい。物証つきのアリバイだ。おのれ、用意周到な。

——第二容疑者、娘。

唐揚げをこよなく愛する少女であり、事件当夜は風呂上がりに台所へ水を飲みに行っている。犯行は可能だった。だが彼女は取り調べに対し、目も合わせずこう言い放った。

「食べてない。てか三個って少なくない?」

論点をずらしてきた。取り調べ慣れしている。それでも追及の結果、彼女が飲んだのは水だけであり、歯磨きのあとだったことが判明。歯磨き後に唐揚げを食べる人間はいない。容疑は晴れた。

こうして捜査は、暗礁に乗り上げた。

家族全員にアリバイがある。外部犯の線はない。残る可能性はひとつしかなかった。

——またあいつか。貧乏神。

プリンに続いて唐揚げまで。僕はタッパーのあった空間をにらみ、迷宮入りの書類に判を押しかけた。そのときだった。

コーヒーでも飲もうと思い立ち、豆の入ったキャニスターに手をかけた瞬間、僕は固まった。

その奥。合わせ味噌と八丁味噌のさらに向こう。冷蔵庫の最深部といっていい暗がりに見覚えのあるタッパーがひっそりたたずんでいた。

唐揚げ、三個。無傷。

タッパーが奥へ移動していたのである。いったい誰が。妻か娘か。いや、たぶん僕だろう。夜な夜な酔っぱらって冷蔵庫から酒のつまみを漁るのは僕の日課である。

事件は事件ですらなかった。犯人はいない。被害者もいない。いるのは、冷蔵庫の奥という名の異界にみずからの手で唐揚げを封印した男が一人。その男は今朝、妻を疑い、娘を尋問し、あまつさえ貧乏神に濡れ衣を着せようとした。

僕は静かに容器を取り出した。何事もなかったように弁当を詰める。捜査記録はむろん破棄した。妻と娘にはこの結末を伝えていない。

その日の娘の弁当には、無事に唐揚げが三個入った。帰ってきた弁当箱はからっぽだった。

家族の中で事件はいまだ未解決のままであるが、唐揚げは愛されている。それでいいのだ。

とはいえ、みずからの失態を棚に上げ、軽々しく家族を疑った己を恥じた。もう二度と憶測だけで妻を疑うまい、と誓った。

そんなわけない!

だが、その誓いはひと夏ともたなかった。

我が家の食卓には、長年黙認されてきた不文律がある。おいしいものを分けるとき、かならず妻の分が最大になるというものだ。

とんかつであれステーキであれ、僕が調理して「運んで」と頼むと、彼女は迷うことなくいちばん大きなものを自分の席の前に置く。そこに母として娘を優先するといった世間一般の自己犠牲はない。

もちろん僕や娘に大物を譲ってくれる日もある。だがそういうときは決まって、「これはパパの好物だからね。私は小さいのでいいの」などと言う。するとこちらは一方的に貸しを作ったような気にさせられるのだ。留守中に僕と娘でいただきものを食べようものなら帰宅後に理詰めで責められる。

欲望に対し、妻はどこまでも忠実なのである。

その夏の夜も、妻は変わらず食欲の忠実な下僕であった。三等分に切り分けられたスイカが食卓に並んだ。僕は目の前のスイカを見て、その日はつい言ってはならない一言を口にしてしまった。

「僕のだけ、あきらかに小さいね」

どうひいき目に見ても、僕のスイカは小ぶりであり、妻のは立派な赤い山だった。かたわらに添えられたシャインマスカットと巨峰も、妻の皿のほうが豊満であった。

ふだんは娘に器の小さい男だと思われるのを恐れて黙っている。だが、唐揚げの一件で真実の追究に奇妙な熱を帯びていたこともあった。

その瞬間、食卓の空気が凍りついた。妻は眉を吊り上げ、「そんなわけない!」と即座に臨戦態勢に入った。

「いや、見た目からしてちがうから。量れば一発でわかるよ」

「じゃあ量ってみたら。量ったらいいじゃないの」

妻は大股で台所へ行き、デジタルスケールを手に戻ってきた。

結果は、残酷なほど明白だった。

四百グラムと五百グラム。

僕の目は正しかった。一切の情を挟まないデジタル機器は、妻が食欲に目がくらみ目分量を歪めていた事実を白日の下に晒したのであった。

完全勝訴。僕は心の中で静かに法廷の小槌を鳴らした。ただし論理で勝って感情で負けるのが夫婦という名の裁判だ。

「いつも同じように切ってるのに、なんでそんなこと言うわけ? じゃあ今度から自分で切ればいいじゃない。明日から自分で切って!」

見事というほかない逆ギレだった。百グラムの差を指摘した正当性はどこへやら、僕は延々と小言を浴び、なぜか翌日からスイカのカット担当に降格させられた。「僕が正しかったのに」という抗議は火に油を注いだだけだった。

正しさが、かならずしも平和をもたらすとは限らない。僕はまたしても敗北したのだ。

この一連のドタバタ劇——無実の罪で尋問された唐揚げ事件から、百グラムの真実を巡る骨肉の争いまでを、娘はいちばん近くで冷ややかに見つめていた。

彼女がそこから何を学んだのか、最近になってようやく合点がいった。

先日、妻が食後のデザートを三等分し、娘に「どれにする?」と尋ねたときのことだった。以前なら目を輝かせて選んでいた彼女がすいっと虚空を見るような目をして静かにこう答えた。

「どれでもいい」

争いを避けるための、あまりにも早い大人の処世術だった。いちばん大きいのを選べば母の無言の圧を受け、小さいのを選べば気を遣わせる。ならば無欲を装うのが、この過酷な食卓を生き抜く術であると悟ったのだろう。

百グラムの真実を暴いた代償として、我が家が得たのは妻の理不尽な怒りと、娘の早すぎる精神的な成熟だった。

食卓の平和を守るためには真実を追究してはならない。ときに見えないふりをする技術こそが家庭を円滑に回す潤滑油なのかもしれない。

次に果物が出てきたときは、僕も黙ってもっとも貧相な四百グラムの皿をうやうやしくいただこうと思う。