野菜戦記——魔法の味つけはなかった

お鍋を囲む家族

子どもが野菜を食べてくれない——こんな相談が届くことがあります。

検索すると、たくさんの魔法の味つけや食べさせる工夫が見つかります。細かく刻んでカレーに隠す、バターで炒めてチーズをかける、ケチャップで甘くする、天ぷらにする……。試したことがあるという親御さんも少なくないはず。

その気持ち、よくわかります。僕も試しましたから。

それで気づきました。魔法の味つけなんかないと。

それでも、うちの娘は野菜をもりもり食べています。その顛末を綴ってみたいと思います。

野菜戦記|父は姑息、娘は正確

うちの娘は、野菜を食べない。

葉物を出せば箸でよけ、根菜を出せば皿の端に器用に積む。彼女の皿の上にはいつも、小さな野菜の墓場ができている。

父として、見過ごすわけにはいかない。食生活アドバイザーを名乗る身である。よその子に「野菜を食べよう」と説いておきながら、足元の娘が肉と白飯だけで生きていくのを黙って見ているわけにはいかない。

戦いが始まった。

さまざまなカムフラージュ作戦を展開

最初の作戦は「溶解」だった。玉ねぎとにんじんをすり下ろし、スープに溶かし込む。形さえ消せば、あとは液体である。娘はスプーンでそれを一口ふくみ、二秒ほど固まったのち、おもむろに口を開いた。

「これ、にんじん入ってる」

わずか二秒でバレた。おそるべき精度だった。ソムリエか。

次の作戦はカレーである。

カレーは人類の発明した最強の隠蔽工作だ。スパイスの奔流の中では、にんじんの甘みなど砂粒にすぎない。実際、娘はもりもり食べた。勝った、と思った。

翌週、油断してルーを控えめにしたら、一口で箸が止まった。

「今日のカレー、にんじんの味がする」

カレーの濃度が国境線だったようだ。こちらが一歩でも譲ると、即座に検知される。停戦は成立しなかった。

ブロッコリーのバター炒めにチーズをかける作戦にいたっては、鼻で笑われた。

食卓に皿を置いた瞬間、娘が鼻からふっと息を漏らしたのだ。父が動揺しているうちにチーズだけが手際良くはがされ、ブロッコリーの木立が皿に残った。

その後も父は、偽装工作を次々と繰り出していった。

ケチャップで甘くする。だめ。天ぷらにする。衣だけ食べられた。海苔で巻く。海苔だけ消えた。

最終兵器のお出まし

このままでは埒が明かない。いよいよ最後の切り札、ハンバーグ大作戦を決行する日がやってきたようだ。

みじん切りにした野菜を合い挽き肉に練り込む。古典にして王道である。さらにナツメグと黒胡椒もたっぷりきかせた。ところが我が娘、一口で咀嚼をやめ、口の中のものを長々と検分したのち、静かにこう言った。

「なんか、入ってる」

なんか、ではない。にんじんとピーマンと玉ねぎだ。それよりも問題だったのは、娘がそれ以来、ハンバーグそのものに強い警戒心を抱くようになったことである。大好物だったはずのハンバーグが出るたび、まず半分に割って断面を念入りに調べる。

父の姑息な作戦は、娘の好物をひとつ潰すという、想定外の事態を招いた。

作戦を変えることにした。偽装工作はやめにして正攻法で挑む。

鍋だ。

正攻法の鍋

ごまかさない。隠さない。白菜は白菜の顔のまま、大根は大根の顔のまま、湯気の向こうに堂々と並べる。その代わり、くったくたに煮る。出汁を吸って、とろっとろになるまでだ。

これが功を奏した。

スープに溶かしたにんじんを二秒で検知した娘が、鍋のにんじんは何も言わず食べるのだ。ブロッコリーも食べる。白菜にいたっては、いくら入れても消えていく。

形を隠せばあれほど頑なだったのに、形が見えていると食べる。だまし討ちには全力で抵抗するが、正面から来るものは受け入れる。武士か。

こうして我が家の冬の食卓に鍋が定着した。

二日に一度は鍋。娘は「今夜は鍋だよ」と言うと「やった!」と歓声を上げるようになった。長い戦いはようやく終わった——。

きのこ、協定を破る

そう思った矢先だった。

妻がえのきを放り込んだのだ。

娘はきのこが食べられない。そのことはこの戦役における大前提、いわば休戦協定の第一条に当たる。だが妻はえのきが好きだ。好きだから入れた。そこに悪意があったわけではない。

しかし娘は箸を置き、鍋にそっぽを向いた。

あんなに輝いていた「やった!」が、食卓から消えた。父の一年に及ぶ戦果が、えのき一袋で白紙に戻った。妻は「おいしいのに」と首をかしげながら、ひとりでえのきをむしゃむしゃと食べていた。

一人鍋という到達点

やがて、我が家は最終形態にたどり着いた。

一人鍋である。

家族それぞれに小さな鍋を用意して、めいめいが好きな具材を煮る。僕は牡蠣や魚。妻は豚肉とえのきとエリンギ。娘は鶏もも肉と野菜。きのこなど入りようのない彼女だけの城である。

大成功だった。自分専用のお鍋という特別感がいいらしく、一人鍋の日の娘はいつにも増して機嫌よく野菜を食べている。

小細工は全敗し、正攻法の鍋は身内に撃沈され、最後に残ったのは「それぞれの鍋で、それぞれ好きなものを煮る」という、拍子抜けするほど平和な答えだった。

味つけでなく、食卓の空気と素材の力こそ魔法

ここまでの物語はフィクションです。実在の人物、団体、えのきとは一切関係がありません。というと言いすぎですが、半分は本当で、もう半分の肝心なところは事実と異なっています。

うちの娘は、昔から野菜は苦手ではありません。にんじんもピーマンもブロッコリーも皿に墓場など作らず、きれいに平らげます。父が姑息な工作に手を染める必要は一度もありませんでした。

とはいえ、娘がきのこが苦手なことや、妻がえのきを愛してやまないことは事実です。我が家の冬は二日に一度が鍋であり、「今夜は鍋だよ」に「やった!」と娘が歓声を上げることも、一人鍋制が実在し、それぞれの鍋でそれぞれの好物を煮て、きのこ問題を恒久的に解決したこともすべて実話です。

魔法の味つけはない

それならどうしてこんな作り話をしたのかというと、「子どもに野菜を食べさせる魔法の味つけはありませんか」という相談をもらうことが少なからずあるからです。

でも魔法の味つけはありません。

刻んで隠しても、子どもの舌はすぐ見抜きます。子どもの鼻と舌は、大人が思うよりずっと鋭いからです。

そもそも子どもが癖のある味をいやがるのは、わがままではありません。自然界では、苦味や酸味は毒や腐敗のしるしです。小さな体を守るため、舌が先に警報を鳴らすのです。大人になれば経験が勝り、ゴーヤやセリの苦味さえしみじみうまいと思えるようになります。子どもが一部の野菜を避けるのは、まだ用心深いというだけの話なのです。

それに、一度だまされたと感じた子は警戒心を強めてしまいます。娘がハンバーグの断面を調べるようになったのは作り話ですが、これはうそではありません。

濃い味でごまかすのも、長い目で見ると弊害があると僕は思います。強い刺激に慣れた舌は、素材本来の味で満足できなくなってしまうからです。

素材の味がわかる舌を育てる

うちの鍋は、味つけらしい味つけをしません。肉や魚から出汁が出るから、塩と醤油と酒くらい。それでも野菜をしっかり煮ると甘くなり、湯気の向こうで家族の顔がゆるむのがわかります。

もし魔法があるとすれば、煮えた出汁の香りと、くたくたの食感と、鍋を囲むあの時間のほうだと思います。

シンプルな鍋を「やった!」と喜べる舌を、子どものうちに育てておく。体が喜ぶものを体は知っています。その感覚さえ育っていれば、味つけの魔法など、そもそもいらないのです。

味つけらしい味つけはしない。それでも十分にうまい。二日に一度は登場する、わが家の冬の定番です。

  • 野菜は白菜をたっぷり。たまにキャベツでもいい。にんじんと大根は薄い短冊に切る。白ねぎと豆腐は必須。
  • あとは気分で、油揚げ、ごぼうのささがき、れんこんの薄切り、ブロッコリー、なすなど、旬のものを入れる。
  • 肉は鶏もも肉、豚バラ、豚コマなど。鶏もも肉なら最初から野菜と一緒に煮る。豚肉は最後に入れる。先に入れると硬くなる。
  • 出汁は肉から十分に出る。出汁パックや昆布はいらないが、お好みで。
  • 味つけは塩か醤油と酒。仕上げにごま油を少し垂らすと香りがいい。すり下ろしたにんにくや生姜を入れてもうまい。薄味にしておいて、大根おろしと醤油でいただくのも捨てがたい。
  • いい肉が手に入ったときは、しゃぶしゃぶかすきやきに格上げする。これは誰でも喜ぶ。