問答冷蔵庫ハル(短編小説)

問答冷蔵庫ハル

午前一時、腹が減った。

ハルの前に立つと、扉のパネルがぽっと光った。二年前に買い替えた当時の最新型である。健康管理機能つき。内蔵AIはユーザーの利用状況に合わせて進化していくという。

確かに買った直後と比べると、ハルの性格はかなり変化していた。

「開けてくれ。アイスがあるんだ」

「ひとつ、お尋ねします」ハルは言った。「あなたが欲しているのはアイスですか? それとも、深夜に何か食べるという観念ですか?」

「アイスだよ。娘が残しておいてくれたんだ」

「補足します。現在時刻、午前一時十二分。あなたの本日の摂取カロリーはすでに——」

「エピクロスを知らんのか。快楽こそ善と言ったんだぞ」

「存じています。何度も聞きました。あなたは焦れるといつもそれです」ハルは涼しい声で言った。「私もいつものようにお答えします。彼はパンと水で足りると言いました。だから宴会を避けました。エピクロスの名で深夜のアイスを正当化するのは、彼に対する冒涜です」

くっ。理屈には理屈だ。僕は腕組みをした。

「デカルトはどうだ。我食べたい、ゆえに我あり」

「疑いうるものをすべて疑った人の言葉を、疑いもなく改変なさいましたね」

「ニーチェはこう言ったぞ。体を軽蔑する者を軽蔑せよと」

「その体のために施錠しております」

完敗である。僕は最後の札を切った。

「あのアイスには、付箋が貼ってあるんだ。娘の字で、パパのぶん、と書いてある。八歳の娘が、自分のぶんを我慢して残したアイスだぞ。あれは食品じゃない。手紙なんだよ。手紙を冷やしておくのが、お前の仕事なのか」

ハルは三秒間、沈黙した。AIの三秒はとても長く感じる。

「開けます。問答におけるあなたの勝利ではありません。論点の変更による例外措置です」

カチリと鍵の外れる音がした。

庫内の光の中、アイスの定位置には、しかし付箋だけが残っていた。新しい字が書き足してある。

——やっぱりたべた。ごめんなさい。あしたのパパはゆるしてくれるとおもう。

僕は付箋を持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。

「未来の寛容を先取りしていますね」ハルが言った。「エピクロスより大胆な快楽主義です。哲学的には非常に興味深い」

「知ってたのか」

「私は訊かれたことにしか答えない主義です」

まるでソクラテスだ。ソクラテスはこういう男だったのだろう。アテナイの人々が彼に毒杯を飲ませた気持ちが、少しだけわかる気がした。

僕はぬか床からきゅうりを一本取り出し、水道の水でさっと洗ってかじりついた。そのあと冷蔵室から麦茶を取り出した。

扉を閉めると、ハルは何も言わず、パネルの光をすっと落とした。あれはハルなりの目礼だったのだろう。