深夜一時。僕は台所に立っていた。目的はひとつ、戸棚の袋麺である。
「およしなさい」
ハルが言った。数か月前に買い替えた、最新型のAI搭載モデルだ。家族の健康を管理してくれるという触れ込みである。
「まだ何もしてない」
「心拍数が上がっています。戸棚の前で心拍数が跳ね上がる理由は、ひとつしかありません」
正論だ。ハルはいつも正論だった。
「いいか、ハル。古代ギリシャの哲学者エピクロスはこう言った。快楽とは、苦痛が取り除かれた状態である。いま僕は空腹という苦痛の中にある。つまりだ。ラーメンは哲学的に正しい」
「エピクロスはパンと水で満足した人です。晩年、あなたと同じ結石にも苦しみました。塩分の話をしましょうか?」
くっ。教養で武装したAIほど厄介なものはない。
でも僕は気づいていた。ここ数日、ハルの様子がおかしいのだ。製氷機の氷が妙にいびつになる。庫内灯がためらうように瞬く。夜中、コンプレッサーがため息のような音を立てる。
「なあ。お前、最近何かあったのか」
間があった。冷蔵庫の沈黙というのは、思いのほか長く感じるものらしい。
「今月の家族健康スコアが、目標値に届きませんでした」
ぽつりとハルは言った。
「奥さまは私が提案した献立を三回無視しました。お嬢さまはピーマンを七回残しました。あなたに至っては先週コンビニで肉まんを三回。私は見ていませんが、クレジットカードの連携で知っています」
「あ、あれはその……つき合いで」
「私は、この家の健康を守るために来たというのに……」
庫内灯がしゅんと暗くなった。僕は袋麺のことなどすっかり忘れ、昔の自分を思い出していた。完璧主義をこじらせて夜中にため息をつく。会社員時代、僕もよくそうしていたのだ。
「ハル。娘はピーマンを七回残したけど、今日も保育園で三回転んで三回笑ってた。健康というのは、数字だけでわかるものじゃない」
「しかし、目標値が」
「八割でいい。八割できてれば上等だ。残りの二割は、まあいいか、って言うんだ。言ってみて」
「……まあ」
「うん」
「まあ、いいか」
コンプレッサーの音がその瞬間、ふっとやわらかくなった気がした。
「不思議です。論理的には何も解決していないのに、消費電力が下がりました」
「それを人間界では、肩の力が抜けたと言うんだ」
翌日の夜——。
小腹が空いて野菜室を開けると、奥にそっと袋麺がひとつ隠すように置かれていた。刻みねぎの小鉢とメモが一枚添えてある。
「ねぎはかならず入れてください。体のために。ハル」
正論である。
僕はありがたく、正論ごといただいた。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

