僕は三十八歳。恋愛小説を書いている。
新人賞には二十回落ちた。二十回である。ボクサーならとうに引退勧告が出ている数字だ。
恋愛小説を書いていると打ち明けると、大抵の人は僕の顔をちらりと見て、それから何も見なかったような顔をする。
気持ちはわかる。僕の顔は、福笑いを途中で放り出したような造作をしている。目と眉の距離が妙に遠く、鼻は遠慮がちなくせに口だけ主張が強い。性格は顔よりさらにねじけている。三十八年間、女性と手をつないだことがない。つなぎかけたことすらなかった。
それでも僕は本気で信じていた。こういう男にしか書けない恋があり愛があると。恋も愛も知らない人間だからこそ、いちばん深く知っている。
砂漠の民が水の値打ちを知るように、渇ききった時間の長さだけは、誰にも負けない自信があった。
行きつけの古本屋、玄海書房の大将だけが僕の原稿を読んでくれる。七十を過ぎた偏屈な男である。褒められたことなど一度もない。
その日も大将は、僕の三百枚を読み終えると老眼鏡を外してこう言った。
「あんたの書く女には、匂いがないね」
「匂い、ですか」
「体温もない。紙で折った女だ。よくできた折り紙だよ。でも折り紙は口説けない」
返す言葉が見つからずにいたら、大将は本の山の向こうからこうつけ加えた。
「あんた、恋でもしたら。嗅覚障害もそれで治るだろうよ」
処方箋のように言うのだった。
風邪には葛根湯、下手な恋愛小説には恋。そんな簡単な話があるものか。僕は憤然と店を出た。
しかし実は内心、少し泣きそうになっていた。いまさらどうすればいいのだと。
その三日後だ。
駅前の交差点で、白い杖を持った女の人が立ち往生していた。いつもならピヨピヨと音の鳴る信号機が故障していたのだ。
おまけに歩道は水道工事で掘り返され、いつもの点字ブロックが途中で途切れている。彼女は杖の先で世界の切れ端を探りながら、行き場をなくして立ちすくんでいた。
声をかけるまでに、僕は青信号を二回見送った。
偽善ではないか、そう考えたのだ。困っている女性を助ける、その美談の裏で、僕の下心が舌なめずりをしていないと言い切れるのか。三十八年ねじけてきた人間は、親切ひとつに三分はかかる。
三度目の青で、僕はようやく声を振り絞った。
「あの……信号、青です。工事で道が変わっていて危ないから。よかったら、その……案内というか」
我ながら、不審者以外の何物でもなかった。けれども彼女は顔をこちらへ向け、少しも身構えることなく言った。
「助かります。じゃあ、肘を貸していただけますか」
「肘?」
「肘の少し上を持たせてもらうんです。そのほうがおたがい楽なの」
彼女は親切に慣れていた。僕は生まれて初めて他人に肘を貸した。コートの上からでも、指の重みは伝わった。小鳥が一羽とまったくらいの軽さだった。
僕はその横断歩道を生涯でいちばん慎重に渡った。
彼女は都築千夏さんといった。点字図書館で点訳書の校正をしていた。つまり、僕なんかよりよほど大量の文章を読んできた人だった。
「お仕事は?」
「小説家、です」
語尾のあたりが、自分でもわかるくらいかすれていた。志望、という二文字を、僕は横断歩道の途中に置き去りにしたのだ。
「まあ。どんなものを書かれるんですか」
「恋愛小説を」
「読んでみたいわ」
「て、点字には、まだなってなくて」
本にすらなっていません、とは言えなかった。
それから僕は、毎週火曜日の夕方、あの交差点に立つようになった。彼女の仕事が終わる時間だ。
偶然を装って、都合十一回。我ながら執念だった。ストーカーと紳士の分水嶺を、僕は爪先立ちで歩いていた。
十二回目の火曜日に、彼女がふいに笑った。
「いつも火曜日にいらっしゃいますね」
「ぐ、偶然です」
「咳払いでわかるんですよ。緊張すると、んん、って二回なさるでしょ。ずっと、いつお茶に誘ってくださるのかと思っていました」
強引に迫っていたつもりだったが、僕は彼女の手のひらの上にいたらしい。観念して、駅裏の喫茶店に彼女を誘った。自分でも笑ってしまうほどに膝が笑っていたが、彼女に見えていないと思うとほっとした。
喫茶店で、僕はメニューをぜんぶ読み上げた。飲みものの欄から、季節のパフェの説明書きから、いちばん下の「当店は分煙です」までであますところなく。
彼女が笑いをこらえているのに気づいたのは、ケーキの欄に入ってからだった。
「ごめんなさい。そんなに丁寧に読んでくださった方、初めてで」
「す、すみません。どこまで読むのが正解かわからなくて」
「いまのが正解です」彼女は言った。「おかげで、この店がどういう店か、ぜんぶわかりました」
でも彼女の言葉を聞いて、僕にできることが何かがわかった気がした。彼女に世界のありようを伝える仕事なら、僕は誰よりも語彙を持っている。
それ以来、僕は彼女の隣で見えるものを片っ端から実況していった。
エレベーターに乗り合わせた人間が、全員そろって階数表示を見上げ、申し合わせたように沈黙する様子。店員の営業スマイルが、客が背を向けた瞬間、蛍光灯を消すみたいに消える話。電車の優先席をめぐる、声に出さないにらみ合い。そういうことに気がついた瞬間、僕は陽だまりから日陰へぽんと突き飛ばされたように感じていた。
「この世界は、あなたが思っているよりずっと感じが悪いんです」
「知ってました」彼女は笑った。「でも、誰も教えてくれなかった。みんな私の前では、世界をお掃除してから話すから。ほこりも意地悪も、ぜんぶ拭き取ってから渡してくれるから」
ねじけた性根が、三十八年目に初めて日の目を見た瞬間だった。
一度だけ、先回りして白状したことがある。
「言っておきますが、僕は、顔がその……ひどいんです。福笑いの失敗作みたいな」
「知ってます」
「え」
「自信のない人の声をしてらっしゃるから。でも」彼女はコーヒーを一口飲んで言った。「私は、声でその人の顔を作ります。私の中では、そうねえ、まあまあの二枚目ですよ。実物がどうであれ、私には関係のないことですし」
慰めではなく、ただの事実の確認だった。
僕の顔は、彼女の世界には存在しない。三十八年背負ってきた荷物を下ろしていい場所が、この世にあるとは思わなかった。
一度だけ、叱られたことがあった。
雨上がりの夕方、駅の階段が混雑していた。誰かの傘の先が彼女の足もとで揺れて、僕はとっさに彼女の手首をつかんで引き寄せた。
彼女は突然、立ち止まった。
「ごめんなさい。手首をつかまれると、私、世界がわからなくなるの」
静かな声だったが、その声からは一切の感情が消えていた。
「私はあなたの肘から、道の続きを読んでるの。引っ張られたら、読んでいる本のページを破られたような気がする」
それから少し間を置いて、彼女は言った。
「危なかったのは、わかってます。ありがとう。でもね、私、見えないだけで、できないわけじゃない。私の世界をお掃除する側に回らないでほしい」
その晩、僕はふてくされた。
彼女のためを思ってのことだったのに。そんな声が腹の底でぶつぶつ言っていた。ねじけた人間の反省はまっすぐになるまでに時間がかかる。
三日ほどかかって、ようやく腑に落ちた。僕は彼女の目になりたかったのではなく、彼女に必要とされる自分に酔いたかっただけなのだ。目は、勝手に手を出さない。ただ伝える。どこへ歩くかを決めるのはいつだって彼女なのだ。
次の火曜日、僕は交差点で謝った。彼女は笑って、いつものように僕の肘へ手を戻した。
「じゃあ、今週の意地悪を聞かせてください」
秋の初め、思い切って遠出に誘った。バスを乗り継いで行く高原だった。
その道中、彼女は九つのときに病気で視力を失ったのだと話してくれた。
「九つまでは見えてたんです。だから、色は覚えてる。覚えてるはずなんですけどね」
彼女は窓のほうへ顔を向けたまま続けた。
「色って、置いておくと乾くんです。二十年以上経つと、ずいぶん剥がれました。青はまだ残ってるの。プールの底から見上げた水の色。緑も少し。でも赤がね……赤はもうほとんど思い出せない。ランドセル、赤だったのに」
何も言えなかった。言えない代わりに、この日のために覚えてきたバスの時刻表の話などをしたら盛大に滑った。彼女は笑ってくれた。
高原は、よく晴れていた。風が乾いていた。
すすきの原を、彼女の手を肘に乗せて歩いた。杖の先が石を拾うたび、指にわずかに力がこもる。
夕方、西向きの斜面に並んで腰を下ろした。
空が赤く染まっていく。
「いま、どんなですか」
きた、そう思った。
二十年間、僕はこのために語彙を蓄えてきたのではなかったか。大学ノート十七冊。川端の雪、三島の寺、谷崎の陰翳。文豪の表現を、僕は虫ピンで標本にするように書き写してきた。
夕陽が山の端に触れると、町は薄く紅く染まり、それが悲しいほど美しかった——。ちがう。夕焼けは壮麗な滅びの儀式のごとく、金属質の光で天を灼いていた——。これもちがう。夕暮れは誰かが出し忘れた手紙みたいに静かに、しかし確実に街に届いた——。ぜんぜんちがう。夕方の台所に煮物の匂いが立ちこめ、家中が息をひそめて父の帰る音を待っていた——。なんだこれは。
いざ口を開くと、標本はどれも死んでいた。借りものの言葉は、僕の肘にとまった彼女の指から先へ、一ミリも流れてはいかない。
僕は頭の中でノートを閉じた。そうして、彼女が九つまでに集めたであろう在庫だけを頼りに目の前に広がる光景を言葉にし始めた。
「西の空のいちばん下に、火を落としたすぐあとの、炭の色があります。触れたらまだ熱いし火傷する。でももう燃えてはいない、あの色です。その上に……ランドセルの赤、覚えてますか」
「はい」
「あの赤をお湯でうんと薄く溶いて、空の低いところに、刷毛でひと掃きしてある。端のほうは湯気みたいにぼやけていて、桃の皮の内側の色になって、その上は風呂上がりの頬の色。もっと上へいくと色が冷めて、朝方の空みたいな薄い青が残っています。星がひとつ。これは、針の先ほどの白です」
「太陽は?」
「山の稜線に半分沈むところです。熟れすぎたトマトを、地平線というまな板にそっと置いたと思ってください。自分の重みで下が少し潰れて、輪郭がにじんでいる。すすきの原が逆光になって、穂の一本一本が線香花火の最後の玉みたいに光っています。あなたの髪もいま、縁だけ金色です」
彼女は黙っていた。
「風が吹くと、原っぱ全体が同じほうへ倒れて光が走ります。猫の背中を大きな手のひらで撫ぜたときみたいに、ざあっと」
太陽が沈みきるまで、僕は話し続けた。
炭の色が消えて、葡萄の皮の色になり、それが夜に溶けきるまで。
人生でいちばん長い描写だった。原稿用紙にすれば、たった三、四枚だろう。けれど二十回の落選のあいだに書いたどの三百枚より、確かに誰かに届いている手応えがあった。
彼女が言った。
「思い出した」
その声は湿っていた。
「赤ってこういう色でした。私、いま、夕焼けを見ました。九つのとき以来、初めて」
彼女は空のほうへ顔を向けたままだった。見えないはずのその目に、夕陽の最後のひとすじが映って光っていた。その輝きが夕陽のせいだけではないことを僕は知っていたが、何も言わなかった。
世界には、実況しなくていいものもある。
高原から帰った夜、僕は机に向かった。
ひさしぶりに書いたのだ。女の指が、男の肘の上で道の続きを読んでいる。そういう小説だった。読み返して、指が震えた。女に匂いがあった。体温が乗っていた。二十年間、折り紙しか折れなかった男の原稿の中で、女が初めて息をしていた。
これを応募すれば、と考えなかったといえば嘘だ。二十回落ちた男の脳には、応募の二文字が焼きついている。梗概をまとめ、規定枚数まで膨らませ、筆名をどうするかまで頭は勝手に考えていた。
でもそこでやめた。
この原稿を、知らない誰かが読むのを想像したからだ。彼女の指の、小鳥一羽のあの重みを知らない誰かが、赤鉛筆片手に採点するのだ。盲目のヒロインの造形にやや既視感がある、などと書くのだ、きっと。冗談ではない。
僕は十枚を封筒に入れ、糊で封をした。僕の書いたこれまででいちばんの小説は、読者を一人も持たないまま、押し入れの原稿の山のてっぺんで眠ることになった。
惜しくはなかった。書きたかったものは、もう原稿の外にある。来週の火曜日にも僕の肘に手を置くのである。
冬の初め玄海書房に立ち寄った。
「書いてるかい」大将が聞いた。
「うーん」
「なんだ。振られたかい?」
「いえ。十枚だけ。でも誰にも見せません。封をしました」
「読ませない小説を書くようになったら、物書きも終わりだね」
「おかげさまで、終わりました」僕は笑った。「春に、いっしょに桜を見る約束をしています。夏は花火。彼女、音だけじゃない花火を知りたいそうです。当分、忙しくなります」
大将は老眼鏡を外して、僕をしばらく眺めた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「処方箋が、効きすぎたか」
「名医のせいですよ」
大将は笑わなかったが、その日初めて、僕の湯呑みに茶を注ぎ足してくれた。
あの交差点の信号は、とっくに直っている。ピヨピヨと几帳面に鳴っている。点字ブロックも敷き直され、彼女はもう誰の肘も借りずに渡ることができる。
それでも彼女は僕と歩くとき、白杖を左手に持ち替えて、右手を僕の肘に乗せる。小鳥一羽の重みは、あの頃より少しだけ増えた気がする。
押し入れの奥には二十回落ちた三百枚の上に、宛て先のない封筒がひとつ載っている。いつか封を切る日が来るのかもしれない。たぶん来ないだろう。けれど、もうどちらでもいい。小説を書くことより大切な一生の仕事を見つけたのだ。
毎日が締め切りで、読者はたったひとり。その読者のために、僕は今日も夕焼けの伝え方を探している。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

