——株主のみなさま(僕)にご報告申し上げる。当家が春に実施した潮干狩り事業は、大幅な赤字にて終了した。以下、その顛末である。
事業計画は悪くなかったはずだ。
潮見表を調べ、大潮の日を選んだ。熊手を二人分そろえ、網とバケツと長靴を積み、朝から車を走らせた。僕の頭の中では、すでにあさりの味噌汁が湯気を立てていた。酒蒸しもいい。ボンゴレも好きだ。獲らぬあさりの皮算用だ。
開戦は午前十時。僕は干潟にしゃがみ、熊手を入れた。
——ここで当事業における最大の誤算をご報告せねばならない。共同経営者であるはずの娘が、開始五分で職務を放棄したのである。
彼女はあさりを掘らなかった。代わりにヤドカリを追いかけた。小さなカニに何か話しかけながら、プラスチックバケツに貝殻を収集していった。それが終わると今度は、干潟に空いた謎の穴にひたすら指を突っ込み始めた。挨拶回りでもするかのように五十個ほどの穴を訪問していた。
それを見て、僕はポケットから塩の入った小瓶を取り出した。娘の手にそれを握らせ、こう耳打ちした。「穴にそっと振りかけてごらん」
とにかく稼働していた労働力は僕一人だったのだ。
僕は掘った。黙々と掘った。隣のベテランらしきおじさんの周りだけ、なぜか砂の色がちがって見えた。あちらのバケツは、ざくざくと景気のいい音を立てている。こちらのバケツは、あさり同士がぶつかる音すらしない。ぶつかる相手がいないのだ。
二時間の操業を経て、最終収穫はあさり十一個。
——ここで収支をご覧いただきたい。潮干狩り場の入場料、熊手その他の設備投資、往復の燃料代、高速代。総費用を十一個で割ると、あさり一個当たりの原価はスーパーの網袋入りあさりを軽く超えた。一個で、である。当家の食卓にこれほどの高級食材が上がったことはない。ふぐより高い。
敗因分析も行なった。
——場所の選定ミス、技術の未熟、そして労働力の離脱。とくに三点目については経営会議で厳しく追及したいところだが、当の共同経営者は帰りの車で泥だらけのまま爆睡しており、その寝顔には「本日大漁」と書いてあった。バケツの中身を見てもいないのに。追及は見送られた。
その夜——。
十一個のあさりは味噌汁になった。一人当たり三個か四個という慎ましい椀である。時価を思えば、いつものように勢いよくはすすれない。僕は一個一個、拝むようにいただいた。
すると娘が椀の中のあさりを箸でつまみ、しみじみと言ったのである。
「自分でとったあさりって、おいしいね」
とってない。
君は一個もとっていない。君がとったのはヤドカリと貝殻だけである。この十一個はぜんぶ、父が腰を痛めながら掘り当てた。帳簿は明らかである。証人(僕)もいる。
しかし何も言わなかった。
「そうだな」と答えて、味噌汁をすすった。
うまかった。癪なことにいつものあさりの味噌汁より明らかにうまかった。潮のにおいと干潟のまぶしさと、穴に指を突っ込んでいた娘の背中まで出汁に溶けていた。
あさりの代わりに冷凍シーフードミックスを使った酒蒸しを箸でつつきながら、僕はふと思った。
昼間、娘はあさりを一個も掘らなかったが、「自分でとった」のだ。半日、海に手を突っ込んで、生きものを追いかけて、泥だらけになった。その体験ぜんぶが彼女の収穫であって、バケツの中身が誰の労働によるかなど些末な話なのだ。体を使ってとってきた一日は、椀の中のあさりをぜんぶ自分のものにしてしまう。
——決算報告を訂正する。当事業は金銭上、大幅な赤字である。しかし椀の中のあさりは、スーパーのあさりとは別の食材になっていた。この差額を計上する科目を僕は持っていない。よって当家は、来年も懲りずに操業する予定である。株主の皆さまにおかれては、腰の心配だけしておいていただきたい。
翌朝、潮まみれの車を洗っていたら、後部座席の足元のプラスチックバケツに目が留まった。家に持って上がるのを忘れていたようだ。バケツの中を見て驚いた。昨日は疲れ果てていて気がつかなかったが、貝殻と一緒にマテ貝がてんこ盛りだった。食感が良くてうま味は濃厚。あさりより僕は好きだ。買うとたぶん、あさりより高価である。
奇跡のV字回復だった。
——敗因分析の三点目、娘の職務放棄は撤回する。ただし当事業の最大の功労者は、あさりを一個も掘っていない。
- 山の上のカップ麺——子連れ登山にいちばん効く切り札
- 一生モノと菓子パン——二十円の値上げに悩む妻が、二万円の双眼鏡を買った
- ヒメスナホリムシとボディボードと脳震盪——遊びの中でしか育たないものがある
- 娘と遊ぶのは、僕が楽しいからだ
- 味噌汁が決まらない日は、心も決まらない
- 虫取り網が教えてくれること。センス・オブ・ワンダーと、子どもと過ごす夏の話
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

