豆大福に敗れた日

豆大福

糖質制限をしていた時期がある。真剣だった。白米を断ち、パンを断ち、麺類を断った。みりんの糖質まで計算していたのだから、真剣を通り越して求道者に近かった。

そういう人間にとって、和菓子は敵の総大将だ。なにしろ砂糖と米でできている。糖質の上に糖質を重ね、糖質で包んだような食べ物である。

洋菓子にはまだバターや生クリームという言い訳の余地がある。和菓子には逃げ場がない。潔いほどの糖質一本勝負だ。当時は和菓子屋の前を通るたび、目を伏せて歩いた。花街を抜ける修行僧のような気分だった。

その日もいつもの和菓子屋の前を通った。夕方だった。ガラスケースの中に豆大福がひとつ残っていた。

目が合った。

豆大福と目が合うはずがないと言うなら、本物の豆大福を見たことがないのだ。あの白い餅肌からのぞく黒い粒は、どう見ても目だ。しかもあっちからじっと見つめてくる。

僕は目を逸らして歩き出した。えらい。しかし十歩ほど進んだところで、頭の中で勝手に会議が始まった。

最初に口を開いたのは、栄養学の担当者だ。

「あんこの原料は小豆である。小豆はポリフェノールが豊富で、食物繊維は牛蒡ごぼうより多い。脂質はほぼゼロ。つまりあれは豆だ。豆を食べて何が悪い」

次に伝統食の担当者が立ち上がった。

「君は日頃、先人の知恵に学べと言っているではないか。和菓子は何百年と続く伝統食である。それを拒むことは、先人への冒涜ではないのか」

最後に哲学の担当者が、静かにとどめを刺した。

「毒だと思って食べれば毒になる。ならば、うまいと思って食べれば?」

気がつくと、僕は店の暖簾をくぐっていた。人間の意志というものは、十歩分しかもたない。

「おひとつかしら?」店のおばちゃんが言った。

「三つください」僕は答えた。

自分でも驚いた。だが考えてみれば当然である。これは実験なのだ。実験には再現性の確認も必要だ。一個では偶然かもしれないではないか。

家に帰って、茶を淹れ、一個目を食べた。餅はやわらかく、塩豆がきいて、あんこは甘さの底に小豆の香りがした。うまかった。二個目もうまかった。再現性は確認できた。

三個目に手を伸ばしたところで、娘と目が合った。豆大福とちがって、こちらは本物の目である。

「パパ、糖質制限してるんじゃなかったの」

「これは研究」

「ふうん」

娘の「ふうん」は、どんな論文の査読より厳しい。

念のために弁解しておくと、糖質制限そのものを否定する気はない。僕には学ぶところの多い食事法だったし、いまでも道理にかなった面が多いと考えている。

ただ、あの日わかったことがある。みりんの糖質を計算しながら食べる飯より、豆大福をうまいうまいと食べる茶の時間のほうが、少なくとも僕の心には効いた。体は心と地続きだ。心が干上がれば、体も干上がる。

結局、僕の糖質制限はあの豆大福を境にゆるやかに幕を閉じた。

敗因は明白である。敵を、砂糖と米の塊だと思っていたことだ。実際の敵は、ポリフェノールと伝統と哲学で完全武装していた。勝てるはずがない。

いまでもあの和菓子屋の前をたまに通る。ガラスケースの豆大福とは、相変わらず目が合うけれど、もう目は伏せない。会釈をして、三回に一回は暖簾をくぐる。

実験は継続中である。