丁寧な暮らしブームを笑っていた僕が、包丁と熊と妻に丁寧さの正体を教わった話。

台所

丁寧な暮らし、という言葉を最初に目にしたとき、こう思った。

——また新しいキャンペーンが始まったぞ。

白い食器、観葉植物、窓際の一輪挿し。ナチュラルな色調で統一されたキッチン、手書きの家計簿——。どこかの雑誌社か代理店か食器メーカーか。誰かが「これが丁寧な暮らしです」と決めて、波紋のように広がっていった。SNSを開くたびに「丁寧」の二文字が踊り、書店では「丁寧」が平積みになっていた。

どこか醒めた目で見ていた。こういうブームを見ると、つい「裏側」を探してしまう性分だ。

どこかのオフィスで誰かが「今年は丁寧でいこう」と言い出し、企画書に判子をついている場面が目に浮かんだ。彼はいまごろ、丁寧とは正反対の荒れ果てたデスクで、次の企画を練っているのだろう。

数年が経った。

包丁が指を狙ってくる

ある日、包丁で左手の人差し指をざっくりと切った。

原稿の締め切りが三本重なっていた。頭の中で仕事のことを考えながら、手だけ動かしていた。にんじんを刻んでいたはずが、指を刻んでいた。

傷口を水で洗いながら気がついた。

——偶然ではないぞ。

思い返せば、包丁で指を切るのはかならず急いでいるときか、何か他のことを考えているときである。

長年台所に立ち続けてきたから断言できる。目の前の食材に集中しているとき、包丁は包丁としてつつましく働いている。使用者の指を攻撃したりしない。

心がいまここにあるかどうか、道具が教えてくれるのだ。

以来、僕はにんじんだけを見るようになり、指を削ぐこともなくなった。

台所は正直なのだ。心ここにあらずで立つと、かならずしっぺ返しを喰らう。

山とひとつになる

山登りでも、似たようなことが起きる。

余計なことを考えながら歩いていると、つまずく、転倒する。滑落しそうになったことも何度かある。

仕事の段取りを頭の中で反芻しながら下山していたら、落ち葉の下に隠れていた石につまずいて吹っ飛んだことがある。もんどりうって倒れこみ、しばらくぼんやり空を見上げていた。

五感だけを研ぎ澄ませて歩いているときはちがった。風の音、湿った土のにおい、足裏に伝わる地面の凹凸——。周囲にだけ意識を向けていると、頭の中はしんと静まりかえる。体と山が、ともに呼吸しているような感覚が訪れる。

あるとき、そういう状態で灌木かんぼくの道を歩いていたら、近くの藪ががさがさと揺れた。背中を冷たいものが走りおりた。

熊だ。

立ち止まり、静かに呼吸を整える。そしてある確信を得た。

——大丈夫だ。

僕はいま、山と調和している。山の神さまとひとつになっている。そんな人間を熊は襲わない。

……本気でそう思った。

やがてその何かは、藪の向こうへと静かに立ち去った。

帰宅して妻に話すと、「熊? 猪か鹿でしょ」とだけ返ってきた。

……いや、猿かもしれないではないか。

妻は反面教師

妻は、丁寧な暮らしの対極に住まわれている。

片づけるという概念はない。リモコンがなくなったとよく騒いでいるが、「妻がさっきまでいた場所」が我が家のリモコンの住所である。

郵便物はカウンターの山にとりあえず積んでいく。「紙の地層」の最下層から平成の請求書を発掘したことがある。

洗濯物は裏返しのままで畳む。裏返しのTシャツをひっくり返して着るのはもはや日課だが、畳んでくれることを僕は感謝している。ソファの上に放置してある日も少なくないからだ。

出会ってから二十数年が経ち、年々それは加速している。

年齢とともに丁寧さが増す人、年齢とともに粗雑ぶりに磨きがかかっていく人。人それぞれであるが、そんな妻に教えられることも多い。

妻は、丁寧に生きようなどとは微塵も考えていないようだ。それでも周囲を笑顔にする。食事もおいしい。そして何より、娘や僕が落ち込んでいるときは誰よりも先に気づく。

丁寧さと豊かさは、イコールではないのかもしれない。

そんなことを考えていたら、妻が食卓の布巾で、床を這う小さなゴキブリを顔色ひとつ変えずにつまんで捨てた。

丁寧さは自分からやってくる

そういう僕にしたって、丁寧に暮らそうと決意したことなど一度もない。でも気がついたら、目の前のことを丁寧にやるようになっていた。そのあたりの話は別の稿にくわしく書いたので、ここでは割愛する。

とにかく丁寧な暮らしというものは意識し始めたとたん、腕からするりと逃げていくものなのだろうと思う。観客席で、丁寧に暮らす役柄を演じる自分を眺め始めてしまうのだ。

丁寧さとは、追いかけるものではなく、気づいたらそばにあるものだ。