たかが二本の棒、されど日本の棒。——箸を忘れた日、先人の知恵と苦労を思い知る

テント場

夕暮れどきのテント場で夕飯の支度を始めたら、箸がないことに気がついた。

ザックをまさぐるたび「あるはずだ」と思うが、ない。コッヘルはある。ガスバーナーもある。食材もある。箸だけがない。

そうだ。近くに落ちていた枝を拾い、十徳ナイフで削ってみる。なんとか箸らしき形に整えることができた。微妙に曲がっているし、長さもちがう。まあいい。そう思って食べ始めたが——。

食べ物がぽろぽろとこぼれ落ちた。二本の棒でつかもうとするたび、するりと逃げていく。力を入れると、明後日の方向に飛び跳ねる。口に含むたび、生木の青臭いにおいがする。せっかくの夕食が台なしだ。

そのとき着信音が鳴った。スマホを取り出そうと天蓋をごそごそやると——。

見つけた瞬間の頭頂部を貫通するような喜びを忘れることができない。二本の棒を放り投げて、快哉を叫び、踊り出したかった。

この日、僕はとても重要な教訓を得た。ズバリ書く。

——箸とは、すごい道具である。

箸はどこから来たのか

いきなりの駄文、たいへん失礼——。

さて、箸が日本に伝わったのは、飛鳥時代のことだ。遣隋使を通じて中国から持ち込まれ、聖徳太子が宮廷に広めたという。

当初は、食事道具ではなかった。神事や祭祀の場で、神さまへの捧げ物を扱う清浄な道具として使われていた。神の食事に素手で触れてはいけない。箸はそのための聖なる仲介者だった。

食卓に降りてきたのはもっとあとだ。奈良時代に貴族のあいだに広まり、江戸時代になってようやく庶民の食卓にも定着した。僕らが毎日なんとなく使っている箸は、もともとは神と人間のあいだをとりなす道具だったのだ。

火について、水について、日本の食にまつわるものを掘り下げると、どこかでかならず神さまに行きあたる。食べることは、最初から祈りと一体だったのかもしれない。

日本の箸だけ先が細い理由

箸を使う文化圏は、日本、中国、韓国、ベトナムなど東アジア全体に広がっている。でも日本の箸には、他の国と明らかに異なる特徴がある。先が細いのだ。

この形になったのは、魚を食べる文化があったからだという。焼き魚や煮魚の身をほぐし、小骨を丁寧によけながら食べるためには先が細くないといけない。さらに大皿をつつく必要のない個人盛りの食文化の影響もあって、箸は短くなった。

食の形が、道具の形をつくる。道具の形が、作法をつくる。そうやって何百年もかけて、日本の箸は和食とともに現在の姿になっていった。

箸の選び方

箸を選ぶとき、いちばん大切なのは長さだ。

一咫半ひとあたはん」という言葉がある。一人ひとりの手の大きさにぴたりとくる箸の長さをあらわす数字だ。手のひらを広げたときの、親指と人差し指のあいだの長さの1.5倍である。箸は長すぎても短すぎても扱いにくい。自分の手にフィットする一膳を見つけることで、食事をより丁寧に楽しめるようになるだろう。

素材はプラスチック、金属、木などいろいろあるが、おすすめは軽くて和食との相性もいい木製である。檜、杉、竹、黒檀……。あるいは少し値が張るが長持ちする漆塗りの箸を選ぶのもいい。

毎日、体に触れる道具だ。値段などにとらわれず、気に入った一品を使用することで生活の満足度はぐんと上がる。

僕が愛用しているのは、金属製の箸だ。おい! と突っ込む声が聞こえてきそうだが、チタン製で軽い。抗菌作用もあり、登山にもうってつけなのである。

娘の箸——ペンは左でも箸は右

娘は左利きだ。保育園の頃、保育士さんに「直したほうがいいですよ」と言われたが、そうしなかった。

娘はその頃から絵を描くのが好きだった。紙とクレヨンを渡すと、一人で黙々と何時間でも描いていた。構図もしっかりしていたし、色の使い方も大人が口出しできないような独自のセンスがあった。まだ保育園児なのに。

右手に矯正して、何かが変わってしまったら。そう思うと、踏み切れなかったのだ。描くのは、左手のままでいい。でも箸だけは、右手で持つよう教えることにした。

理由は、和食の配置にあった。ご飯は左、汁物は右。この配置は、右手で箸を持つことを前提としている。右手で箸を持てば、左手でお茶碗がすっと持ちあがる。箸の向きも、先が左へ向くよう置かれている。

和食はひとつの体系だ。器の配置も、箸の向きも、食べる姿勢も、長い時間をかけて磨かれてきた美学の上に成り立っている。それに沿って食べるとき、食卓は整う。

娘がいま、上手に箸を使う姿を見ると、教えてよかったと思う。絵も相変わらずうまい。

はやま

正しい箸の持ち方を教えるのは、親の仕事の中でもかなり地味な部類に入ります。でも食卓で箸を持つ姿は、その人のすべてが出ると言ってもいい。それは言いすぎか(笑) 一度身につくと、本当に一生ものです。娘はチタン製でなく、和柄のかわいらしい木製のお箸を使っています。

たかが二本の棒というなかれ

山頂付近のテント場で、僕は枝を削りながら昔の人たちに思いを馳せていた。

木材を乾燥させて磨く。形を整えて長さを調節する。それから漆を重ねていく。気の遠くなるような積み重ねの先に、毎日僕らが何気なく使う箸がある。

二本の棒が、千数百年という時間と繊細な手仕事によって、一咫半の日本の棒——箸へと磨きあげられた。その熱意には驚嘆を禁じ得ない。けれども僕らは日々、その恩恵をまったく意識することなく受け取っている。

テント場でラーメンを、僕は曲がった枝を使い、青臭いにおいとともにすすった。

……まずかった。

でもそのまずさが、箸という道具の真価を教えてくれたのだ。当たり前すぎて、それまで見えていなかったもの——。日本の台所には、他にもそういうものがたくさんある。