父が勝手口の前で待っていると、母が台所から塩を手に戻ってきた。
電車の運転士だった父は、人身事故が起きると現場の後始末に駆り出されることがあった。そういう日の帰りは、家の敷居をまたぐ前に、母が父の背中と肩に塩をひとつかみ振りかけた。
小さいわたしは、その光景を何度か見たことがあります。
何をしているんだろう、と思った記憶はある。でも不思議とは思わなかった。おかしいとも思わなかった。ただそういうものだと、言葉より先に受け入れていた。
大きくなってから、あれが「穢れを祓う」行為だと知りました。死の現場に関わってきた父に、見えない何かが憑いてはいけない——。そういう感覚から来ていた。
いまになって思うのは、「わかった」より先に「受け入れていた」ことのほうが、よほど不思議ではないかということです。
はやま
「穢れ」とは何か——「汚い」ではなく「枯れた」
「穢れ」という言葉から、どんなイメージを持つでしょうか。
汚い、不潔、道徳的に悪い——そういうイメージを持つ人が多いかもしれません。でも本来の意味は、少し違います。
「穢れ」は「気枯れ(けがれ)」から来た言葉だと言われています。「気(き)」とは生命力のこと。その気が枯れた状態——生き生きとした活力が失われた状態が「穢れ」です。
死、病、出血。昔の日本人はそういう出来事を「生命力が枯渇した状態」として受けとめていました。「悪いことをした」という罪の意識ではなく、「エネルギーが減った」という感覚に近い。
そして「祓い」は、その枯れた気を清め、本来の活力を取り戻す行為です。
父が帰宅するたびに母が塩を振ったのは、父が汚れていると思ったわけでもない。ただ、父の気が枯れているから、それを清めたかった。それだけのことだったのです。
暮らしのなかにある身近な「祓い」
「そんな古い話、いまの自分には関係ない」と思うかもしれません。
でも、よく考えてみてください。あなたはおそらく、すでにいくつもの「祓い」をしてきています。
盛り塩
玄関先や飲食店の入り口に、塩を小さく盛る習慣があります。あれは「魔除け」と言われることが多いですが、本来の意味は「穢れを清め、清浄な空間を保つ」こと。塩は古来からもっとも強力な清めの道具とされてきました。
お相撲さんが土俵に塩をまくのも同じです。神聖な場を清め、祓い整えてから競う——。あれは単なるパフォーマンスではなく、千年以上続く祓いの所作なのです。
葬儀後のお清め塩
葬儀から帰ったとき、玄関先で塩を体に振りかけてもらうのも「祓い」です。
死という最大の穢れの場に立ち会った体を、家に持ち込まないよう清める。これはいまも多くの家庭で続いています。
わたしの記憶にあるのは、大学のときに亡くした幼なじみのお葬式です。同じ町で育った同級生が、交通事故で逝ってしまった。帰宅したあと、玄関先で塩を振ってもらった。あのとき感じた、胸の中が少し落ち着くような感覚は忘れられません。
大祓(おおはらえ)——年に二回、日本中で行われる祓い
6月と12月の末日に、全国の神社で「大祓」という儀式が行われます。半年間に積み重なった穢れを、まとめてはらい清める行事です。
紙でできた人形に自分の名前と年齢を書き、息を吹きかけ、体を撫でてから神社に納める。自分の穢れを人形に移して、川に流したりお焚きあげしたりする地域もあります。
6月の大祓は「夏越の祓え」とも呼ばれ、茅の輪をくぐる神社も多い。あの大きな輪には、実は作法があります。左→右→左と「8の字」を描くように3回通るのが一般的です。
茅の輪の由来はこうです。日本神話の旅の神が、貧しいながらも厚くもてなしてくれた一家に「腰に茅の輪をつければ疫病から免れる」と教え、その一族だけが救われた——という伝承が起源。神社の境内で「蘇民将来(そみんしょうらい)」という文字を目にしたことがある方もいるかもしれませんが、あれはその伝承に由来しています。
12月の大祓は大晦日に行なわれます。大晦日に家中を大掃除して、お風呂に入って年を越す、という習慣も、実はこの「祓い」の精神とつながっています。清浄な心身で新年の神さまを迎えるための準備。大掃除も、お風呂も、祓いだったのです。
節分の豆まき
「鬼は外、福は内」も、本来は「穢れを外へ追い払う」祓いの儀式です。豆(穀物)は古来から邪気を祓う力があるとされてきました。
子どものころ、わけもわからず鬼の仮面をかぶった父に向かって豆を投げつけた。あれも意味のある「祓い」だったのです(笑)。父はその後、玄関の外に追い出されていましたが。
はやま
説明より先に、体が知っている
話を最初に戻します。
小さいわたしは、玄関前で母が父に塩を振る光景を見て、「なぜ?」とは思わなかった。
この「なぜ? と思わなかった」という事実が、いまでも不思議です。
誰かに教わったわけではない。本で読んだわけでもない。でも「そういうものだ」という感覚が、すでに体のなかにあった。
伊勢神宮に立ったとき、ひとりでに背筋が伸びた。御岳山の森の中で「何かに見られている」と感じた。先祖が死後もすぐそこにいるという感覚——。
どれも「理屈でわかった」より先に、体が反応していた。
何千年もの長い時間をかけて、日本人の体に染み込んできた感覚というのは、たしかにあると思うのです。言葉や説明を必要としない、体の記憶。それが「血脈として受け継がれている」ということの正体ではないかと、わたしは思う。
父はもう運転士ではありません。でもあの玄関の光景は、いまもはっきりと覚えています。
帰ってきた父の背中と肩に、母が無言で塩を振る。父も何も言わない。それだけのことですが。
たったひとつかみの塩と、無言のひと振り。でもそのなかに、何千年もの知恵が静かに宿っていた。
「なんとなくやっている」ことの意味を少し知るだけで、日常の景色が変わります。盛り塩を見る目が変わる。お清め塩の感触が変わる。そしてなにより、それを当たり前のように続けてきた、先人たちへの敬意が生まれる。
受け継ぐというのは、きっとそういうことなのだと思います。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

