祓えと清め——日本人の潔癖さには理由がある

盛り塩

父が勝手口の前で、じっと待っている。母が左手に乗せた塩を右手でつまみ、無言のまま父の背中と肩に振りかける。

電車の運転士だった父は、人身事故が起きると現場の後始末に駆り出されることがあった。そういう日の帰り、父は家の敷居をまたぐ前に、かならずこの「儀式」を受けていた。

小さい僕は、その光景を何度か見ている。何をしているんだろう、と思った記憶はある。ただ不思議と変だとは思わなかった。そういうものだと、言葉より先に受け入れていた。

穢れを祓う

あれがけがれをはらう行為だと知ったのは、ずっとあとになってからだ。死の現場にいた父に、見えない何かが憑いてはいけない。たぶん母の塩にはそういう感覚があったのだろう。

穢れとは気枯れ——生命力が枯れた状態のことだと、何度か書いた。死、病、出血。昔の日本人はこれらを悪いものではなく、生命力が減った状態として受けとめた。電池切れに近い感覚である。祓えとはその枯れた気を清め、本来の活力を取り戻すための行為なのだ。

そう考えると、母が塩を振ったのは、本人がどう思っていたかはともかく、父が穢れているからでなく、枯れた父の気を元に戻していたわけである。

暮らしのなかの祓え

そんな古い話、自分には関係ないと思うかもしれない。ところが僕らはいくつもの祓えを日常的に行なっている。

たとえば盛り塩。

玄関先や飲食店の入り口に小さく盛る塩は、「魔除け」と説明されることが多いが、本来は穢れを清め、清浄な空間を保つためのものだ。

塩は古来、もっとも強力な清めの道具とされてきた。力士が土俵にまく塩も同じだ。神聖な場を清めてから競うという、千年以上続く祓えの所作なのだ。豪快な塩まきが名物になっている力士もいるが、あれは立派な祓えだ。場を清めながら観客まで沸かせるのだから一石二鳥である。

葬儀から帰ったとき、玄関先で体に塩を振る「お清め塩」も祓えだ。死という最大の穢れに立ち会った体を、そのまま家に持ち込まない。この習慣は、いまも多くの家庭で続いている。

忘れられない記憶がある。大学の頃、隣家の幼なじみを交通事故で亡くした。葬儀から帰り、玄関先で塩を振ってもらったとき、ざわざわしていた胸の中がすっと静かになった。奇妙な安堵感だった。

人の死に立ち会うと、誰の心もざわつく。不安になる。どこかしら怖い。死は周囲の気を大きく枯らす。その穢れを祓い落とす方法が、暮らしの中にしっかりと用意されている。

神話や宗教を抜きにしても、よくできた仕組みだと思う。悲しみを消すことはできない。それでも失った平常心をひとまず取り戻し、日常生活へ戻る入り口を作ってくれる。塩、ひとつかみで。

年に二回、日本中でいっせいに行なわれる祓えもある。

六月と十二月の末日、全国の神社で催される「大祓おおはらえ」だ。半年分の穢れをまとめて祓い清める行事で、紙の人形ひとがたに名前と年齢を書き、息を吹きかけ、体をなでてから神社に納める。穢れを人形に移して川に流したり、お焚きあげしたりする地域もある。

六月の大祓は「夏越なごしの祓え」とも呼ばれ、境内に大きなの輪が立つ神社も多い。あの輪には作法があって、左、右、左と八の字を描くように三回くぐるのが一般的だ。

由来は神話にさかのぼる。旅の神が、貧しいながらも厚くもてなしてくれた男に「腰に茅の輪をつけておけば疫病を免れる」と教え、その一族だけが救われたという伝承である。神社で見かける「蘇民将来そみんしょうらい」の文字は、この男の名だ。

十二月の大祓は大晦日に行なわれる。家中を大掃除して、風呂に入って年を越すという習慣もこの祓えの精神とつながっている。清浄な心身で新年の神さまを迎える——。大掃除も年越しの風呂も実は祓えなのだ。

節分の豆まきもそうである。「鬼は外、福は内」は穢れを外へ追い払う儀式で、豆には古来、邪気を祓う力があるとされてきた。

人身事故の帰りには塩で清められ、節分には豆をぶつけられて玄関の外へ追い出される。思えば父は、我が家の祓えを一身に引き受けていたことになる。ご苦労なことである。

体に刻み込まれた記憶

話を勝手口に戻す。

あの光景を見て僕は「なぜ」とは思わなかった。誰かに教わったわけではない。本で読んだわけでもない。それでも「そういうものだ」という感覚が体の中にあった。

伊勢神宮に立ったとき、ひとりでに背筋が伸びた。深い森の中で、ふと「何かに見られている」と感じる。どれも頭でわかるより先に、体が反応していた。数千年、数万年かけて僕らの体に染み込んできた感覚というものは確かにあると思う。言葉も説明もいらない体の記憶だ。「血脈として受け継がれる」とは、そういうことではないだろうか。

父はもう運転士ではない。だが、実家の玄関にはいまも塩の小瓶が置いてある。先日、娘に「これ何」と聞かれて、僕はこう答えた。

「そういうものだ」

娘は「ふうん」と言って、それきり何も聞かなかった。何千年の知恵はたぶんこうやって無言のまま次の勝手口へ渡っていく。