「バチが当たる」の執行機関は、どこにあるのか

父と娘

米粒を残すと「バチが当たる」と言われて育った。

いま思えば、あれは不思議な脅し文句だ。

誰が罰するのか、不明。

いつ当たるのか、不明。

どんな罰なのか、不明。

量刑の基準も、控訴の窓口も、一切不明。近代法治国家なら成立しない、穴だらけの刑罰だ。

なのに、効いた。茶碗の米粒を、僕は一粒残らず食べた。夜のトイレで「お天道さまが見ている」を思い出して、こっそり戻って手を洗ったこともある。執行機関の所在も知らないまま、僕はあの司法制度のもとで、まっとうに更生しながら育ったのだ。

先日、この伝統の脅しが現代に通用するか、娘で実験してみた。茶碗に米粒を残した娘に、厳かに言ったのだ。

「残すとバチが当たるぞ」

「誰に訴えられるの?」

「……神さまだ」

「何罪で?」

「米粒残し罪だ」

「証拠は?」

取り調べを受けているのは、僕のほうだった。現代の法治国家の住人はなかなか手強い。

それにしても面白いのは、あの刑罰の軽さである。バチが当たるといっても、想定されているのはつまずくとか、おかずを床に落とすとか、せいぜいその程度なのだ。地獄に堕ちるとは誰も言わなかった。罪状は曖昧、執行機関は不明、それでいて刑はやけに軽い。世界でいちばんゆるい司法制度である。

それに、言葉をよく見ると、バチは「当たる」のだ。

罰なら「下る」だろう。裁きなら「受ける」だろう。ところがバチは、雨に当たる、ボールに当たると同じ動詞で語られる。誰かが狙って裁くのではなく、世界のほうからコツンとぶつかってくる、なかば事故のような言い方だ。だから当たっても、神さまを恨まずに済む。「バチが当たった」と頭をかき、笑って改めればいい。裁かれた者ではなく、不注意だった者としてやり直せる。

もうひとつ気づいたことがある。

僕はいまでも米粒を残さない。バチが怖いからではない。いつからか怖さは消えて、「もったいない」だけが残った。米の一粒に、作った人の手間と炊いた人の時間が見えるようになったからだ。

バチとはたぶん補助輪なのだと思う。

子どもはまだ「もったいない」がわからない。だから大人たちは、わかる日が来るまでのつなぎとして、あのゆるい司法制度を貸してくれたのだ。脅しで始まり、いつの間にか補助輪は外れて、感謝だけが残る。八百万の神さまの仕事は、罰することではなく、それまでのあいだ子どもの行儀を預かっておくことなのだろう。

後日、僕が急いで朝食をかき込み、茶碗に米粒を二、三残して立ち上がったら、娘が言った。

「バチ当たるんでしょ」

効いているではないか。僕は黙って座り直し、一粒残らず食べた。執行機関は不明のまま、あの装置はいまもこの家でしっかり動いている。