その一言を本気で叱った——祝いと呪い、言霊

名づけ

娘がまだ小さかった頃、寝る前に布団の中で、友だちの名前を挙げて「あんな子、いなくなればいいのに」と言ったことがある。

子どもの他愛ない愚痴だ。聞き流せばいい。でも僕はその瞬間、背筋がひやりとして、いつになく本気の声で娘を戒めていた。

「それは言うな」

なぜあんなに動揺したのか。自分でも驚いたくらいだ。あとになってわかった。僕らの体の奥には、言葉に対する古い恐れが棲みついているからだ。口から出た言葉には、それだけで何かを引き寄せる力がある。そういう確信がたぶん、日本人は骨の髄にまで染み込んでいる。

言霊

この国には昔から言霊という考え方がある。声に出した言葉には霊力が宿り、良い言葉は良い現実を、悪い言葉は悪い現実を手繰り寄せる。

言葉で人を殺せると、昔の人は本気で信じていた。

古代の律令には、呪詛で人を殺そうとした者は謀殺に準じて罰する、と定められていた。国家が、呪いと刃物を同等に見ていたのだ。

名前の扱いも徹底していた。貴人の本名はいみな——忌み名と呼ばれ、軽々しく口にすることを固く戒められた。名を知られることは、魂を握られることで、名を呼ぶことは、相手を支配することに通じるからだ。

映画『千と千尋の神隠し』で、湯婆婆が千尋から「千」という名を奪う場面があった。名を奪われた千尋は、元の世界へ帰る道を忘れかける。荒唐無稽なファンタジーではない。名は魂の器だという、この国のいちばん古い感覚を、宮崎監督は正確に描いていた。

監督はこう語っていた。言葉は意志であり、力なのだと——。

ちなみに紫式部や清少納言という名も女房名で、本名は千年経ったいまでもわかっていない。万葉集の巻頭歌からして、野で菜を摘む娘に男性(天皇)が名を尋ねる歌である。女性が名を教えることは求婚を受け入れることだった。名前ひとつが、それほどの重さで扱われていた。

丑の刻参りにしても、藁人形と五寸釘があれば良いというものではない。憎い相手の名を口にし、呪いの言葉を唱えながら打つ。その中心は釘ではない。言葉だ。子どもの頃、鎮守の森で見たあの打ちっぱなしの藁人形にも、知らない誰かの言葉が打ち込まれていたのだろう。

呪いと祝い、そして祈り

「呪う」という言葉の語源をたどると、「のる」という古い動詞に行き着く。「宣る」「告る」と書く。神聖なことを声に出して唱えるという意味だ。この「のる」からは別の言葉も生まれている。神職が神前で奏上する「祝詞のりと」である。

「祈る」も「い(斎)」に「のる」がついたものだ。つまり、呪いと祝福と祈り——この三つは、もとをたどればみな同じ「のる」という一本の根から枝分かれした、双子ならぬ三つ子の兄弟なのである。

これは日本語の話だが、中国の漢字も「呪」と「祝」はもともと生まれが同じだという。「口」という形は、話すための口ではなく、神への祈りの言葉を収めた器の形からきている。

「祝」は、祭壇の前でその器を捧げて祈る人の姿で、「呪」もまた同じ器を前に祈る人の姿だという。神に幸福を願えば祝になり、他人の不幸を願えば呪になる。器は同じ。祈る人の姿も同じ。ちがうのは、言葉に込めた願いの向きだけだ。呪いと祝福は、同じ力の裏表なのである。言葉は刃になり、薬になる。

言霊の国

万葉集の時代、山上憶良はこの国を「言霊ことだまさきはふ国」と呼んだ。柿本人麻呂も「磯城島しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞ」とうたっている。 

言葉が現実を動かす国。だからこそ、古代の日本人は言葉を恐れた。人麻呂は「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」とも詠んでいる。言挙げをしない——言葉を声高に主張しない、それがこの国の作法だという。沈黙は、言葉の力を知る者のもっとも誠実な態度であった。

そう思うと、日本人が「不言実行」を尊び、雄弁をなんとなく胡散うさんくさく感じるのも案外この辺りに根があるのかもしれない。

だから僕らは、いまでも言葉の向きに神経を使う。

結婚式では「切れる」「別れる」を口にしない。受験生の前では「落ちる」「滑る」と言わない。夜の爪切りを平気で笑い飛ばす人でも、花嫁の前で「終わる」とは言えないのだ。

断っておくが、僕は迷信深い人間ではない。夜に口笛を吹くと蛇が来るとか、食べてすぐ寝ると牛になるとか、耳たぶが大きいと金持ちになるとか、ああいうものはばからしいとさえ思っている。人間が作った規則であって、正体は子どもへのしつけか語呂合わせだからだ。

それでも不思議なことに、鬼門と名づけだけは、どうしても無視できない。このふたつには、規則ではなく祈りが入っているからだろう。

名づけ

娘が生まれる前、僕は一週間、名前ばかり考えて暮らしたことがある。

音はかなり前から決まっていた。子どもができたらこの名前にしよう。そういう音が何年も僕の中にあった。考えていたのは女の子の名前だけだった。自分の子は絶対に女だという根拠のない確信があったのだ。

さて、問題は漢字である。僕はその音に、姓名判断で満点の字を当ててやりたかった。どの流派で調べても、どの本で調べても満点が出る。そういう漢字を探した。

なぜそこまでしたのか。僕自身の名前の来歴が、なかなかにひどいからだ。親は僕の名前を考えていない。近所のお寺さんにつけてもらったらしい。しかも、もらった名が当時の人気歌手と同じで、父はその歌手が嫌いだった。だから勝手に一部を変えたそうだ。祈りどころか、好き嫌いで改変された名前なのである。あの人はいつも無茶苦茶なのだ。ついでながら、僕の姓名判断の結果はいつも芳しくない。

A2判の大きな紙を広げ、まず最高の画数を割り出した。次に、その画数に合う漢字を探した。

一般的な字だけでは足りず、当て字にまで範囲を広げた。画数が合えば良いというものでもない。字面だって大切だ。名前は一生、他人の目に触れ続ける。ぱっと見たときの印象はどうか。書きやすいか。夜ごと、大きな紙が候補の漢字で埋まっていった。

一週間頭をひねってようやく見つけた。画数は満点。字面もいい。子どもが生まれる前に親がしてやれる仕事はあまりない。名づけは、子どもに最初の言霊を贈る儀式なのである。

娘が十四歳のころ、友だち同士で姓名判断をして遊んだことがあったそうだ。娘の結果だけが異常に良くて、みんな驚いたという。娘は鼻が高かったという。その話を聞いて、僕はほくほくした。十四年前のあの一週間がようやく報われた気がしたのだ。娘はいまも自分の名前を気に入ってくれている。

意識が、言葉が世界を形作る

意識が世界を形作っている、と前に書いた。

量子論には、観測という行為が素粒子のふるまいに影響を与えるという有名な話がある。解釈をめぐっては専門家のあいだでもいまだに議論が続いているが、僕はその話に長いあいだ心を惹かれてきた。

意識と世界は、僕らが思っているほどきれいに切り離せないのではないか。だとすれば、意識が世界に触れるとき、その指先にあたるものは何か。言葉だと僕は思う。祈りは、言葉になって初めて世界に届く。昔の人が言霊と呼んだのは、そのことだったのだろう。

名前は、祈りの言葉

だから、名前なのだ。

名前は、誰かが口にするたびに唱え直される祈りだ。世界でいちばん小さくて、いちばん頻繁に読み上げられる祝詞なのだ。それなら運気の良いものであるほうがいいに決まっている。

娘の名前を、今日もどこかで誰かが呼ぶ。教室で、街角で、友だちの笑い声の中で。そのたびにあのA2判の紙の上の一週間が、僕の知らない場所で小さく復唱されている。

呪いの言葉が人を殺せるのなら、祝いの言葉は人を生かせるはずである。なにせ同じ器なのだから。

「あなたはいい子だ」と言われ続けた子の未来と、「だめな子だ」と言われ続けた子の未来が同じであるはずがない。親は毎日、知らず知らずのうちに子どもに小さな祝福か、小さな呪いをかけている。

どちらかの言葉を選ぶかは、親である僕ら自身にゆだねられている。