「今日の夕飯なあに?」問題——父はなぜ献立を隠していたのか

台所の父と娘

小学生の頃、娘は毎日のように聞いてきた。

「今日の夕飯なあに?」

玄関のドアが開き、ただいまより先にこれだったこともある。挨拶はどうした、と思う。たぶん、学校から帰る道すがら、娘の頭の中はすでに夕飯のことでいっぱいだったのだろう。それはそれで毎日台所に立つ者として悪い気はしないでもない。

けれど僕は、この質問にほとんど答えなかった。

「さあ、なんだろうね」

「海のものか、山のものか」

はぐらかす。ごまかす。ときには「今日はごちそうだよ」とだけ言って、中身は明かさない。

娘はむくれる。「なんで教えてくれないの」

理由はふたつある。

ひとつめ。献立が娘の好物でなかったときの、あのがっかりした顔を見たくない。「お魚かあ……」の一言と、あからさまに下がる眉尻。あれを夕方見せられると、作る気が音を立てて失せる。まだ米も研いでいないのに。料理は気分で作るものではないけれど、気分に左右されるものではある。少なくとも僕の場合、あの顔は包丁より先に僕を切る。

ふたつめ。こちらのほうが大きい。好物だったときのうれしそうな顔は、いま見たくない。取っておきたいのだ。湯気の立つ皿を食卓に置いたその瞬間の「やったあ!」は、料理と一緒に出てきてこそ値打ちがある。夕方のキッチンカウンターで前払いしてもらっては困る。

つまり僕は、毎日サプライズを仕込む興行主だった。観客はたった一人。開演は午後七時。幕が上がるまで演目は極秘。そう考えると、「今日の夕飯なあに?」というあの質問は、ネタバレを迫る困った客の声だったことになる。やはり教えるわけにはいかない。こちらには興行主としての矜持がある。

もっとも、客もさるものだった。正面から聞いてだめとなると、からめ手で来る。

「今日、スーパー行った?」

「行ったよ」

「お肉買った?」

刑事の尋問である。買い物袋の中身から演目を推理しようというのだ。冷蔵庫を勝手に開けて物証を押さえようとしたこともある。僕は鶏肉をボウルに移し、ラップをかけて隠した。興行主と刑事の静かな攻防が毎夕繰り広げられていた。

でもいま思えば、あれはずいぶん贅沢な攻防戦だった。

献立を考えるという仕事は、家事の中でもっとも見えにくい。買い物や調理は手が動いているからまだ目に留まるけれど、今夜何を作ろうかと考えている時間は、誰の目にも映らない。冷蔵庫の中身と昨日の残りもの、娘の体調と僕の気力とを頭の中で突き合わせる。あの時間こそが料理のいちばん物憂い部分だと、毎日作る人ならわかってくれるはずだ。

娘はその見えない時間に光を当ててくれていたのだった。誰かが僕の演目を毎日楽しみに待っていた。がっかりされるのも期待されるのも観客がいればこそなのだ。

娘はもう「今日の夕飯なあに?」も「やったあ!」も言わなくなった。興行主としては正直、寂しい。だから、いまでも僕は好物の日、皿を置く瞬間にちらっと娘の顔を見る。

幕が上がった瞬間の観客の歓喜の声を、僕はまだ期待してしまうのだ。