世界でいちばん遅い散歩——娘のポケットには石ころが詰まっている

蜘蛛の巣と雨露

我が家の散歩は、世界でいちばん遅い。

娘と手をつないで夕方に家を出る。目的地は歩いて十分の公園である。それが、着く頃には日が傾いている。

理由ははっきりしている。娘がすぐにしゃがむからだ。

道端のダンゴムシ。側溝のふたの模様。どこかの家の塀をのぼっていくアリの行列。光をはね返すガラスの破片。形のいい石。娘の世界には立ち止まる理由が無限にある。十メートルにつき一回はしゃがむ。そのたびに僕は半歩先で待つ。

帰宅すると娘のポケットから石が出てくる。どんぐりも出てくる。たまに用途のわからない枯れ枝も出てくる。

だから我が家では、子どもの服を洗う前にかならず小さなポケットにそっと指を差し込む。これを怠るとひどい目に遭うのだ。

それにしても今日のポケットはすごかった。どんぐりが三つ。色とりどりの小石が四つ。先のちびた鉛筆。何かの部品らしき金属片。乾いた葉っぱ。それからビー玉が一個とティッシュにくるまれた何か。

ティッシュは開けるのにちょっとだけ勇気がいる。ダンゴムシだったこともある。蝶の死骸かと思ってよく見たら花びらだったこともある。それでも、うっかり捨てようものなら大変なことになる。

「あれ、宝物だったのに」

涙ながらに訴えられて、こちらは平身低頭、ゴミ箱をひっくり返して捜索するはめになる。

あの子の目にはきっと世界が宝物だらけに見えているのだろう。道端の石も枯れた葉も、誰かが落とした名もなき部品もすべて拾う価値のあるものなのだ。値札も相場も関係なく、自分がいいと思ったかどうか。それだけでものの価値が決まる。

大人になると、石はただの石になる。どんぐりは踏まないように避けて通るだけのものになる。「ほら、行くよ」「あとでね」「置いていくよ」——気がつけば、僕の口から出るのはそんな言葉ばかりになっていた。大人には行きたい場所と着くべき時間がある。

ある秋の朝のことだった。

公園の手前で、娘がしゃがんだまま動かなくなった。いつもの石か虫だろうと思い、僕は半歩先で待った。ところがいくら待っても立ち上がらない。

「どうした」覗きこんで、こちらが動けなくなった。

低い植え込みに、クモの巣が張っていた。朝露が乗っている。糸の一本一本に小さな水玉が等間隔に並んで、朝陽を受けてきらきらと輝いていた。誰かがわざわざ飾りつけたとしか思えない精巧さだった。娘がささやくように言った。

「パパ、宝石だね」

僕はしゃがみ込んだ。娘と同じ高さまで腰を落として初めて気づいた。この高さから見る世界はちがって見えた。クモの巣は本当に宝石だった。朝露の光が胸の奥にすっと入ってきた。

ふいにセンス・オブ・ワンダーという言葉を思い出した。世界の不思議に目を見はる感性のことだ。娘はそれをいま満タンで持っているらしい。

その日から我が家の散歩はますます遅くなった。この前などは僕のほうが石に夢中になって、娘に「パパ、行くよ」と手を引かれた。

帰宅して、ポケットから石を三つ取り出したら、妻が洗濯物を畳む手を止めて笑った。

「パパまで拾ってきてどうするの」

どうもしない。

ただその石ころを、僕は窓辺に並べて置いた。

「仲良し三人組だね」

娘が微笑んだ。