吾輩は猫である——僕がベジタリアンにならない理由は、思想ではなくかつお節である

かつお節とねこ

食事法のスタンプラリーをやってきた男である。

マクロビ、グルテンフリー、糖質制限、アルカリ食、しまいには断食まで。健康のためというより、半分は実験だった。自分の体を使った、長い長い自由研究である。

ところがスタンプ帳に一か所だけ空白がある。

ベジタリアンである。

なぜやらなかったのか。思想に反対なわけではない。野菜は大好きだ。理由を突き詰めていくと、行き着く先はいつも同じだった。

かつお節である。

一度だけ本気で向き合った夜がある。ベジタリアンの客を、夕飯に招くことになったのだ。

肉と魚を出さなければいいんでしょ、と僕は軽く考えていた。献立を点検して青ざめた。味噌汁の出汁にかつお節。おひたしの上にかつお節。煮物の下味に出汁。卵焼きにも出汁。きんぴらの仕上げにもかつお節。

我が家の一汁三菜は、見えない魚に支えられていた。和食というのは、海の上に建っていたのである。

途方に暮れかけて思い出した。禅寺だ。マクロビをやったときに散々勉強した。精進料理は何百年も前からこの問題を解いている。肉も魚もなしであれだけの料理の体系を発展させてきた。出汁は昆布と干し椎茸。こくは大豆とごま。先人は、僕のはるか先を歩いていた。

その晩、僕は初めて昆布と椎茸で出汁を引いた。正直、半信半疑だった。ところが椎茸の出汁で作った味噌汁には、かつお節とは別のうま味があった。海の出汁に対する、山の出汁である。

客はおかわりをした。ほっとして、僕もすすった。うまい。悔しいがうまかった。

ベジタリアンというのは、外来の思想だと思っていた。ちがっていた。この国の台所の奥にもともと静かに座っていたのだ。しかも精進料理は「禁止の料理」ではない。あるもので尽くす「工夫の料理」だ。引き算のはずが、いつのまにか足し算になっている。

ならば入信するかと言われたら、しない。

客を見送って、台所を片づけながら、僕は削り節をひとつまみ、そのまま口に放り込んだ。それを見ていた妻が苦笑した。

「もう、猫じゃあるまいし」

吾輩は猫である。猫はベジタリアンにはなれないのである。