答えを持つ酢と、問いかけてくる酢

らっきょう酢と三杯酢

我が家の台所には、答えを先に言ってくる酢と、こちらに聞いてくる酢がある。

答えを先に言ってくるのは、らっきょう酢だ。数年前の初夏、らっきょうを漬けるために買った。一リットル。らっきょうは無事に漬かったが、問題はそのあとだ。半分以上残ったのだ。

捨てるのはもったいない。だから、きゅうりを漬けてみた。うまい。新玉ねぎを漬けた。これもうまい。みょうがを漬けた。これまたうまい。ゆで卵まで漬けた。またまたうまい。

当然である。らっきょう酢は、酢に砂糖と塩をあらかじめ溶かし込んだ調味液なのだ。甘みと酸味と塩気の配合が、最初から完成している。つまり、酢の物の味はこれで決まり、という答えが、瓶の中に最初から入っている。何を漬けてもそれなりの味になる。失敗のしようがない。

便利だ。便利すぎた。気がつけば、我が家の酢の物はすべてらっきょう酢で作るようになっていた。三杯酢を自分で合わせることもなくなっていた。

ある晩、酢の物を一口食べた娘が言った。

「これ、全部同じ味がする」

ドキリとした。

きゅうりの酢の物も、たこの酢の物も、わかめの酢の物も、確かに同じ顔をしていた。具がちがうだけで、味の輪郭がまったく同じなのだ。当たり前である。同じ答えに浸けているのだから。

らっきょう酢が悪いのではない。らっきょう酢は有能なやつだ。有能すぎて、僕から仕事を奪ったのだ。甘みを足すか、足すならどれだけか、今日のきゅうりの水分量ならどうするか——。そういう小さな判断を、僕はらっきょう酢に外注していた。

思えば、三杯酢を合わせるのは面倒だった。煮切ったみりんを酢と醤油に加え、その日の具材と相談しながら合わせる。味見をしては首をかしげ、また少し足す。決まった配合はない。毎回異なる。だから毎回考える。その仕事を僕は放棄していたのだ。

翌日ひさしぶりに三杯酢を自分で合わせた。わかめときゅうりとしらす。酢を入れ、醤油を垂らし、煮切りみりんを少し。味見する。何かが足りない。砂糖をひとつまみ。まだ足りない。少し考えて、酢をもう少し。四回目の味見で、今日の答えが見つかった。

食卓に出すと、娘が一口食べて言った。

「いつもとちがう」

「どっちがいい」

「……こっちかな。なんか、ちゃんとしてる」

ちゃんとしてる。十数年生きてきた人間の語彙としてどうかと思うが、言いたいことはわかった。いつも同じ味しかしない酢の物と、その日の気温や湿度、具材によって味が変わる酢の物のちがいである。

らっきょう酢は、いまも台所にある。忙しい日には頼る。でも調味料の中心メンバーからは外れてもらった。

便利なものを使うことと便利なものしか使えなくなることは、また別の話なのだ。

何も足されていない米酢は、瓶の中に答えを持っていない。その代わり、ふたを開けるたびに聞いてくる。

——今日はどうする?

その問いに毎晩答えるのが、台所に立つということなのだ。