梅干しを一粒、口に入れる。酸っぱさに頬の内側がきゅっと締まって、唾があふれてくる。果肉をほぐしながら白いご飯をかきこむ。ああ、日本人に生まれてよかった。毎日そう思う。
だが、平穏はそこまでだ。
果肉が尽きると口の中に種が残る。問題はここからである。
僕はしゃぶる派だ。種についたわずかな果肉を一片たりとも見逃さない。舌で転がし、繊維をこそげ取るようにしゃぶり尽くす。妻は「みっともない」と言うが、こちらは食べ物への敬意を示しているつもりだ。梅干しに失礼のないよう最後のひと欠片まで味わっているのだ。
ところが、しゃぶっているうちに出すタイミングを見失う。果肉はとうになくなっているのに、まだ種を転がしている。もう味はしない。小石を口に入れているのと変わらない。それでも出さない。出すきっかけが、つかめない。
もうひとつ難題がある。種の置き場所だ。
皿の隅にそっと出す。すると食事の途中で、皿ごと下げられそうになる。「捨てないでくれ」と慌てて止める。ティッシュに包んでおくと、今度はそれがどこかへ消える。あとで丸まったティッシュの中から、ぽろりと種が出てくる。お前、こんなところにいたのか。よその家や店で出たときはもっと困る。立派な小皿にしゃぶり尽くした種をぽつんと置く。あの所在なさといったらない。
この記事に書いていること
天神さまのこと
そういえば子どもの頃、祖母が梅干しの種を金づちで割ってくれた。中から小さな白い仁が出てくる。「天神さま」と呼ぶのだと教わった。学問の神さま、菅原道真が宿っているから、食べると頭が良くなるのだという。半信半疑で口にした。ほろ苦かった。
怨霊として全国に祟りをなし恐れられた道真公が、やがて天神さまとして祀られるようになったのは、日本人らしい話だと思う。人は死んだあと、しばらく霊としてさまよい、やがて山や森に落ち着き、時間をかけて神になる——そんな古い考え方が、今も生活の中に静かに残っている。
強い恨みを抱えて亡くなった人は怨霊になることもあるそうだが、丁寧に祀れば、やがて神へと昇華していく。恐れと敬いがいつも隣り合わせなのだ。梅干しの種の中の小さな仁にまで天神さまが宿るというのも、その懐の深さゆえだろう。
実は今でも僕は天神さまを食べている。我が家には梅干しの種を割るためだけのペンチがある。これで種を挟んで、ぱきりと割る。取り出した天神さまを口に入れる。やっぱりほろ苦い。
怨霊から神へ、そして梅干しの種へ。道真公も、ずいぶん忙しい旅路を歩んでこられた。いくら食べても僕の頭が良くならないのは、さすがの道真公も、そこまでは面倒見きれんと思っておられるのかもしれない。
そして妻の話になる
そういえば過去に一度、神さまを食べるなど失礼ではないのか、祀ろうと思い立ち、居間のチェストの上に即席の神棚を作ったことがある。そこへ種を積んだ。山の稜線でよく見るケルンのようにも見えて、なかなか気に入っていたのだが、ある日きれいさっぱりなくなっていた。
妻が捨てたらしい。何十という道真公をだ。バチが当たるぞ、と思っていると、早速その夜、台所の箸立てに妻の歯ブラシが刺さっているのを発見した。翌日は冷蔵庫のドアポケットに牛乳と並んで醤油があった。年のせいだと妻は笑っていた。
役に立たなくても守り続ける
祖母から受け継いだものの中で、いちばん役に立っていないものを、僕はいちばん大事に守り続けている。
梅干しの種は、ただのゴミではない。かといって食べ物でもない。果肉と一緒に口に入り、果肉が消えたあともしばらく居座る。出すに出せず、捨てるに捨てられない、宙ぶらりんの存在だ。
一見すると昆布や煮干しの出がらしと似ているが、あれは我が家ではふりかけに生まれ変わる。梅干しの種に第二の人生は用意されていない。でも、その宙ぶらりんの種の中に天神さまはいらっしゃる。
今日も僕は果肉のなくなった種を、もう少しだけと口の中で転がしている。しゃぶり終えたらペンチで割るのだ。
頭はたぶん今日も良くならない。けれど僕のしつこさに道真公もそろそろ根負けする頃合いかもしれない。だから明日も割る。これはもう習慣というより信仰に近い。
天神さまを口に入れると、なぜか少しだけ背筋が伸びる。人は、こういう小さな儀式に支えられて生きている。
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