中学生のころ、僕は自作のゲームを誇らしげに叔父に見せた。キャラクターがピコピコ動くだけでうれしかったあのころだ。
叔父は画面をちらっと見て、疑わしそうにいった。
——お前が? ほんとか?
あのひと言は、子どもの胸にスッと突き刺さった。怒られたわけでもないのに、妙に冷たく感じて、しばらく頭から離れなかった。いつもはやさしい叔父だった。僕はあの日、「人は驚くとあんなに冷たい声が出るのか」ということを知った。
大人になったいまならわかる。あれは意地悪ではない。「未知のものに出会ったときの大人の戸惑い」だったのだ。
叔父は教師で、教育論の論文を長年書いてきた人だ。でも退職後に読ませてもらった論文は、有名な論客の言葉をまとめただけで、 叔父自身の体験や「現場の匂い」がほとんどなかった。
正直にいえば、あれはAIのほうがずっとうまく書ける (叔父には絶対にいえないけれど)。
叔父のあの冷たいひと言の裏には、 「自分の知識が時代に追い越されるかもしれない」 という不安があったのかもしれない。
デジタル嫌悪の正体はプライドと恐怖
年配の方がスマホやパソコンを避ける理由は、「難しい」「面倒くさい」だけではない。
知らないことを恥ずかしいと感じたり、若い人に頭を下げて教えを乞うのが気に食わないというプライド、それによって自分の権威が失墜するかもしれないという不安——そういうものが積み重なっているからだと思う。
うちの父もそうだが、パソコンのことで質問してくるときほど、なぜか「上から目線」になる。「おい、これどうなってるんだ」といいながら、どういうわけだか「自分は正しい」という顔をしている。
あれはきっと、恥ずかしさの裏返しなのだろう。
でも、その頑固さはもったいない。便利な道具を拒むことで、本当はもっと楽にできることが、ずっと大変なままになってしまう。
はやま
AIにできること、できないこと
AIは、情報をまとめたり整理したりするのが得意だ。叔父の論文のように「引用を集めてまとめる」タイプの仕事は、機械のほうが速くて正確だ。
でも、AIが苦手なものもある。
味や匂いといった感覚、子どもの表情の変化、ぬか床の今日の機嫌、人の気持ちの揺れ、会話のなかに見え隠れする建前と本音、心の機微——こういう「体験の温度」は、AIには表現できない。
たとえば、ぬか床の「今日はちょっとスネてるな」という感じ。あれも、実際に手を入れて感じてみないとわからない。AIにはまだ無理だ。
だからこそ、人間の知性は「体験」にこそ価値があると僕は思う。
人類史のうねりとしてのIT革命
デジタル化やAIの登場は、 ただの「便利な新製品」ではない。
農業革命や産業革命で筋力が人間の外に出た。印刷革命で知識が外に出て、IT革命では記憶が外に出た。そしていま、AI革命によって、思考の一部までが外に出ようとしている。
こうして見ると、叔父が立ちすくんだのも無理はない。
人類史レベルの変化が、たった数十年のあいだに一気に押し寄せているのだから。
はやま
どう生きるか——手とデジタルのあいだで
僕が思う折り合いは、とてもシンプルだ。
ITは「使う」。身体感覚は「残す」。
両方を持っていればいい。
たとえば、子どもにスマホの使い方を教えてもらえば、ついでにおしゃべりも増える。面倒な作業はITに任せれば、浮いた時間で散歩や手仕事ができる。
でも体験を言葉にして残すことは、AIにはできない、人間だけの仕事である。
叔父の論文も、 もしデータ整理をITに任せていたら、もっと「叔父自身の言葉」が出てきたかもしれない。
叔父から学んだことと、僕の選択
叔父の頑なさは、ある種の哀しみでもある。でも、彼の生き方から学ぶことも多い。
僕はこれからも、ITの海を泳ぎながら、手の記憶を失わない生き方を選びたい。
ぬか床を混ぜ、紙に書き、土を触る。そして、必要なところではITの力も借りる。
その両方の世界を行き来することが、 これからの知性のかたちだと思っている。
最後にひとつ。
変化を怖がるのは自然だ。でも、意地で目を伏せるのはもったいない。
スマホの使い方を孫に聞くのも、案外いいコミュニケーションになる。
見て、触れて、学んで、自分の手で世界に何かを返す。
それが、いま僕たちにとりうる、もっとも誠実な態度ではないだろうか。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

