生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ世界のどんな味も知らない。言葉も、料理も、「おいしい」という概念さえ持っていない。それなのに、母乳を口にした瞬間だけは、迷いなく「うまい」と感じている——らしい。
母乳には、グルタミン酸が含まれている。うま味の主成分だ。
つまり人間は、この世に生まれ落ちた瞬間から、うま味を「おいしい」と感じるように設計されている。学習ではなく、本能として。
なぜそうなのか。なぜわたしたちは、この味に抗えないのか。池田菊苗が「うま味」と名付けてから100年以上経った今も、その問いは深い。
うま味は「タンパク質の探知機」だった
人間の舌には、甘味・酸味・塩味・苦味・うま味の五つの受容体がある。それぞれの受容体は、それぞれの理由で進化してきた。
甘味は糖質=エネルギーの存在を知らせる。塩味はミネラルの補給を促す。酸味は腐敗のサイン、苦味は毒のサインとして危険を避けるために機能する。
生き延びるために必要なものほど、味覚は強く報酬を与えるように進化する。
では、うま味は何のために存在するのか。
答えは単純で、深い。タンパク質の探知機だ。
グルタミン酸はアミノ酸のひとつで、タンパク質が分解・熟成されると生まれる。つまり「うまい」と感じる場所には、高い確率でタンパク質がある。体の材料になる、生存に不可欠な栄養素が。
ヒトがうま味を「おいしい」と感じるように進化したのは、タンパク質を効率よく見つけるためだったとされている。食べられるものを探し続けた数百万年が、 わたしたちの舌に「うま味センサー」を搭載した。
そして冒頭の話に戻る。 母乳にグルタミン酸が含まれているのは、おそらく偶然ではない。 生まれたばかりの赤ちゃんに「これがおいしいものだ」と教えるために、最初の食べ物のなかに、うま味は最初から仕込まれていた。
はやま
1+1が、7になる
うま味には、もうひとつ不思議な性質がある。
グルタミン酸(昆布に多い)とイノシン酸(鰹節に多い)を組み合わせると、うま味が単純な足し算をはるかに超えて増幅される。 研究によれば、その倍率は7〜8倍にも達するとされている。
うま味は、味覚の世界における「和音」だ。
音楽でいえば、ドとソの音を同時に弾いたとき、それぞれの音を単独で鳴らすより豊かに響く——あの現象に近い。ただし昆布と鰹節の場合は「7倍豊かに響く」わけだから、和音どころの話ではない。
これを「うま味の相乗効果」という。
はやま
そして、ここが重要なのだが——日本の一番だしは、この相乗効果をはじめから使っている。昆布(グルタミン酸)と鰹節(イノシン酸)の組み合わせは、科学的に最強のうま味ペアだ。日本の料理人たちはそれを、科学の言葉を持つ何百年も前から、経験と舌だけで選びとっていた。
なぜ日本だけが、1200年先を行なっていたのか
世界中の食文化にうま味は存在する。イタリアのパルメザンチーズ、スペインのアンチョビ、中国の醤。どれもグルタミン酸やイノシン酸を豊富に含む食品だ。
だがなぜ、うま味を「引き出す技術」が日本でこれほど突出して発達したのか。
理由はいくつかある。
ひとつめは、仏教だ。
675年、天武天皇が肉食を禁じる詔を出した。以来、宮廷料理や精進料理から動物性のうま味が消えた。肉の代わりに、昆布・干し椎茸・大豆などからうま味を引き出す技術が必死に磨かれた。制約が、技術を生んだ。
ふたつめは、水だ。
日本の水は軟水が多い。軟水はミネラルが少なく、昆布のグルタミン酸を素直に引き出してくれる。ヨーロッパに多い硬水だとミネラルがうま味成分と結びついて抽出を邪魔する。日本の地形が、だしに向いた水を用意していた。地形が料理を決める——おもしろい話だと思う。
みっつめは、乾燥と発酵の技術だ。
鰹節はカビをつけて発酵・乾燥させることでイノシン酸が凝縮される。昆布は北海道で採れたものが「昆布ロード」と呼ばれる海路で大阪へ運ばれ、乾燥・熟成された。発酵は食材を保存する技術であると同時に、うま味を濃縮する技術でもあった。
この三つが組み合わさって、世界でもっともうみ味を引き出す文化が生まれた。池田菊苗は、その1200年の集積の上に立っていた。
「おいしい」の正体は、進化の記憶だった
赤ちゃんは母乳でうま味を覚える。日本人は1200年間、だしでうま味を受け継いだ。池田菊苗がそれに名前をつけた。2002年、科学者が舌の上に受容体を発見した。
それぞれがバラバラに見えて、すべて同じひとつのことを指している。
「うまい」という感覚は、わたしたちが生き延びるために身につけた、進化の記憶だ。
今朝の味噌汁を飲んでうまいと思ったなら、それはあなたの舌が数百万年の歴史に正直に反応しているだけのことで、むずかしい話は何もない。
人間、なかなかよくできている。
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