神道は宗教なのか

神社

知り合いの外国人に聞かれたことがある。「葉山はどんな宗教を信仰しているの?」

「とくにないよ」僕は即答した。

彼は不思議そうな顔をした。それはそうだろう。僕は正月には初詣に行き、娘の七五三を祝い、神棚のある家で育った男なのだ。無宗教を名乗る資格が果たしてあるのか。

似たような質問を、ブログの読者からもらったこともある。

——神道って、宗教なんでしょうか?

これが答えにくい。

宗教です、と答えるのは何かがちがう。かといって宗教ではないと言い切るのも雑に思える。神社があって、神さまがいて、儀式があって——とくれば、宗教と呼べなくもない。

それでも何かが決定的にちがう。神道に関する文章をいろいろ書いてきたけれど、実はこのあたり、ぼんやり霞がかかったままだった。

いい機会だ。正面から整理してみよう。

宗教の定義からは逸脱

まずは宗教の定義を確認しておこう。おおむねこういうことだろう。

——人知を超えた存在(神や仏など)への信仰を、思想や観念として体系化したもの。あるいは、それにもとづく教義、戒律、行事、儀式、施設、組織など。

キリスト教もイスラム教も仏教も、この定義によく当てはまる。聖典があり、教えがあり、入信というプロセスがあり、信者を自任する人たちがいる。戒律を守り、教義を学び、日々それを実践し、その先にある救いを求める。

神道はどうか。

教義——ない。

戒律——ない。

聖典——ない。

入信の手続き——ない。

布教活動——ない。

定期的なお布施——ない。

教祖——いない。

キリストや仏陀のような創始者——いない。

みごとに何もない。

それなのに僕らは神社に行く。初詣に出かけ、賽銭箱に五円玉をぽいと投げ入れ、手を合わせて「今年もよろしくお願いします」と頼みごとをして帰ってくる。日本人ならごく普通の光景だ。

だが、他の宗教だったらどうだろうか。入信もせず、教義も学ばず、日々何も実践せず、正月にだけふらっとやって来て「よろしく」と言って帰る。そんな信者を普通の宗教は受け入れない。叱られる。

ところが神道はそれで構わない。罰も当たらないし、拒まれもしない。境内はいつでも開いていて、誰が来てもいい。五円でも百円でも、来ないよりはましだ、くらいの鷹揚おうようさと寛容さがある。

これは神道がいわゆる宗教ではないからだと僕は思う。

自然発生的な自然観、死生観

では、なんなのか。僕の考えはこうだ。

神道とは、この列島に暮らす人々の心に自然発生した自然観であり、死生観である。神道という言葉が生まれるよりずっと前からそこにあったものだ。

その根はおそらく縄文の森までまっすぐに伸びている。

八百万の神々——山にも川にも岩にも竈にすら神が宿るという感覚は、文字を持つよりはるか昔の、自然への畏れそのものだ。誰かが開いたのでも設計したのでもなく、この土地に生きてきた人々が長い時間をかけて育てた心のよすがだ。日本人の魂の底で鳴り続けている通奏低音のようなものだろう。

そこに神道という名がつくのは、ずっとあとのことになる。

古事記と日本書紀は、皇室が編ませた書物である。自分たちの統治の正当性を物語として語るため、神々に名前と系図を与えた。この国にもともとあった名もなき自然への畏れの上に、人格を持った神々が重ねられていったのだ。

だから神道にはふたつの層がある。

下の層には縄文からの自然観や死生観。その上にあとから整えられた神々の物語。うちの母は神棚の水を毎日替え、折々に塩と米を供えていた。特別な信仰心があったわけではない。掃除や洗濯と同列の、ごく当たり前の家事のひとつとしてやっていた。

あれこそ家庭における神道のありようそのものだと思う。僕には上の層の作法というより、下の層から地下水のように染み出してきたものに見える。生活の中に最初から溶け込んでいるのだ。

意識している人など、ほとんどいない。

「私は神道の信者です」と考えている日本人はまずいないだろう。それでもこの国に生まれただけで、気がついたらその中にいる。強制されたわけでも、縛られているわけでもないのに、自然といろんな年中行事や祭事、神事を行ない、しきたりを守っている。

ほとんどの日本人が「宗教は?」と聞かれたら「無宗教」と答える。そのくせ節目節目には神社に足を運び、結婚式には神前式を選ぶ人もいる。葬式はお寺に頼み、お盆には先祖を迎える。外国人の目には矛盾のかたまりに映るだろう。でもこの不整合こそ、神道の本質をよく表わしていると思う。

ちなみに神前での結婚式は案外あたらしい。いまのような形が広まったのは、明治三十三年の皇太子ご成婚がきっかけで、翌年、東京大神宮が一般向けに始めたものである。せいぜい百年あまりの歴史しかない。

それ以前の庶民の婚礼は、自宅で開く祝言の宴で、神前で誓うものではなかった。何百年来の伝統と思いこんでいたものが、実は明治生まれの新参者だったりする。神道はこんなふうにのらりくらりと形を変えながら、暮らしに寄り添ってきた。

信仰として「持つ」ものでなく、生活として「ある」もの。だから無宗教と神道は矛盾しないのである。

仏教と比べると、このちがいがよくわかる。仏教もゆるやかな宗教だが、それでも宗派があり、檀家という仕組みがあり、宗教としての輪郭がある。神道にはその輪郭がない。それとも輪郭が日本列島そのものと同じくらい大きすぎて見えないだけなのか。

この国に満ちる、宗教という名の空気

もっとも、神道は宗教ではないと言い切ってしまうことも、僕にはできない。神社がある。神職がいる。祭礼がある。信仰の対象としての神さまがいる。広い意味では、宗教と呼べる条件はそろっているからだ。

正確にいうなら、宗教と呼んでもいいが、他のいかなる宗教とも一線を画す何か。この曖昧さが神道の姿だと思う。

神道について考えるとき、神さまを信じるか信じないかという問いもあまり意味をなさない。他の宗教ではそれが入口となるが、神道の場合、この国に生まれた時点ですでに始まっているのだ。

信じるかどうかを頭で決める前に初詣に連れて行かれ、七五三を祝われ、お盆に先祖を迎える手伝いをさせられる。気がついたら、神さまの存在を頭でなく、心と体で感じるようになっている。

手水舎《ちょうずや》の一杯の水も、禊《みそぎ》も、お盆の迎え火も、お天道さまの気配も、これまで僕が書いてきたことは、要するにぜんぶこの話だったのだと思う。

神道とは、宗教というより空気に近い何か。信じるか信じないかではなく、吸っているかいないか。

いまならあの知人にこう答えるだろう。

——特定の宗教は信じていない。でも生まれてからずっと吸っている空気ならある。

彼はますます混乱するだろう。

でもそれがいちばん正直な答えなのだ。