テレビゲームについて、宮崎駿さんが1998年に語ったことと、わたしの後悔というか葛藤

本とゲームコントローラー

「またゲームやってる」

リビングのソファに沈み込んで、画面を見つめている子どもの背中。夕飯ができても気づかない。声をかけると「ちょっと待って」。待って、待って、気づけば一時間。

怒るべきか、ほっておくべきか。取りあげるべきか、時間を決めるべきか。正解がわからないまま、今日も同じ風景がくり返される。

子どもとテレビゲームの問題を、宮崎駿さんは1998年にすでに語っていました。スマートフォンもSNSもなかった時代です。

あれから四半世紀以上が経ちました。状況は宮崎さんが想像していたより、はるかに深刻になったかもしれません。それでも、その言葉は今も少しも古びていません。

1998年、宮崎駿さんが語ったこと

1998年といえば、テレビゲームの黄金期です。プレイステーションが爆発的に普及し、子どもたちが放課後に集まればゲームの話で持ちきりだった時代。宮崎さんはその只中で、こんなことを語っています。

——いまの子どもたちの一番深刻な問題は「始められない」こと。その原因は、漫画やビデオやテレビゲームが現実よりおもしろいものになったことにある。こうした傾向が顕著に現れるのが、いまの35歳あたりから下の世代。この傾向は今後さらに激しくなっていくだろう。なぜならこの世代が親になるから。

さらにこんなことも。

——3歳までは、テレビやビデオを見せるな、自然と触れ合わせろといいたい。子どもたちを生き物として元気にするためにテレビもゲームも全部規制したほうがいい。ジブリ映画のビデオを買って繰り返し子どもに見せる親がいるが、とんでもない話。取り返しのつかない何かを失っていることに気づいていない。

——何より子どもを丈夫にしないといけない。そして知的好奇心を持ち続けるようにすること。この世界と嚙み合うようにすること。子ども時代はそのためにある。

はやま

宮崎さんの言葉を読んで、胸の奥が少しざわつきました。というのも、1998年時点での「いまの35歳あたりから下の世代」だから。ただわたしの子ども時代は、学校帰りにまっすぐ家に帰ったことがほとんどなかった。雑木林で虫捕りしたり、田んぼで泥んこ遊びしたり、用水路でザリガニを釣ったり、焚火して延焼してこっぴどく叱られたり(笑)。当時ファミコンはありましたが、買ってもらえなかったから外で遊ぶしかなかった。あの日々は、わたしの宝ものになっています。

「現実に触れることが大事」という言葉の重さ

宮崎さんが繰り返し言っていたのは、「現実に触れること」の大切さです。

泥の感触、川の冷たさ、魚のぬめり、雨上がりの土のにおい。怪我をして虫に刺されて、火遊びして火傷して、ときには川で溺れそうになったり——そういう経験が子どもの体と感覚、感性を育てていきます。生きる力を育てるといってもいい。

テレビやスマホの画面で景色を見ることや、ゲームで何かを体験することと、実際に世界の中に飛び込むこととは、まったく別物です。子ども時代というのは、外を走り回って自分だけの世界の手触りを獲得していく時期なのだとわたしは思います。

——「子どもたちは大人に対して『なぜ生きるんですか』と聞いているんです。『なぜこんな時代に生まれてきたのか』『なぜ僕は生まれてきたのか』と。それに対して大人の答えは『そんなことを言っていると損する』とか『こうやったほうが得する』とか、つまり答えを持っていないんです。実際、僕だって聞かれたらハタと困りますよ。明確な答えを持っていないんだから。でも、損得でものをいうのをやめようと思わないと、たぶん何の説得力もないでしょう」(原文ママ)

わが家の実践と、娘の「あのころ」

わたしはゲームを禁止しませんでした。でもSwitchは買いませんでした。

ちょうどSwitchが発売されて、まわりの子がみんな持っていた時期でした。でも、それより本を読んでほしかった。自然の中で遊んでほしかった。ただ親がこの本を読みなさいと押しつけても、子どもはなかなか読んではくれません。そこで食卓に無造作に本を置いておくようにしました。すると娘はなんとなく手にとって読み始めた。

そのうち図書館通いを始めました。小学生のころは毎週十冊以上借りてきていました。

それをわたしは脇で見て、しめしめとほくそ笑んでいました。

ところが娘が中学3年生になったある日、こう言われました。

「小学校のころ、やっぱりSwitch買ってほしかった。みんな持ってて、自分だけ仲間に入れなくてつらかった」

当時は納得しているふうに見えたから、驚きました。妻にあとから聞いた話ですが、参観日に教室へ行ったら、休み時間になっても娘だけがひとりで自分の席に座っていたそうです。

かわいそうなことをしたな——。胸の奥がぎゅっと縮むような感覚がありました。

はやま

ゲームが悪いとは思っていません。わたし自身ファミコン世代です。ブームのころ、買ってもらえなかったけど(笑) でも友達の家でさんざんやりましたし、大人になってからも楽しんできた。なかには宮崎映画のような感動をくれる、非常に質の高いものもあると知っています。だから「子どもにゲームを与えないことが正しい」とも思えないのです。

答えは、一つじゃない

宮崎さんの言葉は鋭くて、本質をついていると思います。自然に触れること、現実に体験すること、その意義は1998年もきょうも変わらない。

一方で、友達とオンライン対戦で笑い合う時間も、子どもにとっては「本物の体験」です。公園にSwitchを持ち寄って遊ぶことが、今の子どもたちの「外遊び」の一形態になっているという現実がある。

答えはひとつではないし、親がそれぞれ決めるしかない。

宮崎さんが言葉で、ひとつだけ間違いないと思うことがあります。

親の価値観や生き方が問われている、ということです。

ゲームを与えるかどうかよりずっと切実で難しい問題です。でも、言葉ではなく背中で何を伝えられるか、それが問われているのだと思う。

子どもに何を渡せるか——。

答えを出すより、その問いを持ち続けることのほうが、親として誠実なのかもしれません。

はやま

娘が中3のときに言った言葉は、いまも胸に残っています。でも、あの子が図書館で借りてきた本の重さも、夏に海で見せてくれた満面の笑顔も、わたしのなかに確かに残っている。どちらも、あの子の「現実」で、あの子の「世界」だったのだと思う。


※宮崎駿さんの発言は1996年と1998年発行の季刊誌に収録されたインタビューをもとにしています。引用は内容を要約・意訳したものです。