「完璧なお母さん」でいなきゃ、と思っているあなたへ——哲学者三人に相談してみたら

落ち込むママ

——今日も怒鳴ってしまった。ご飯は手抜きだった。笑顔で「おかえり」と言えなかった。

今日できなかったことを数えながら眠りにつく夜がどのくらいあるだろう。「親なんだから、ちゃんとしてなきゃ」——こんな言葉をわたしたちはいつから自分に言い聞かせるようになったのか。誰かに言われたわけでもないのに、気がついたらずっと見えないプレッシャーの中で息を潜めている。

三人の哲学者にこの悩みをぶつけてみました。

フリードリヒ・ニーチェ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、老子。それぞれ力強い答えが返ってきましたので、どれかひとつだけでも今夜の枕元に持ち帰ってもらえるとうれしいです。

ニーチェ「完璧な人間などいないほうがいい」

最初に登場するのは、19世紀ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ。「神は死んだ」「超人」といった言葉で知られ、その言葉の過激さのせいで誤解されることも多い人物です。晩年は精神を病み、母と妹に看取られて亡くなりました。強さを語り続けた人が、実はとても傷つきやすい人間だった。そのことを知ると彼の言葉が少しちがって聞こえてきますね。

彼ならきっとこう言うでしょう。

「あなたは完璧な母親になろうとしている。でも、完璧さとは成長の終わりなのです。転ばない人間は、立ち上がる力も育てることができない」

ニーチェが生涯をかけて批判したのは、らくに生きるために本当の自分を縛ることでした。世間の正しいお母さん像に自分を合わせようとするとき、あなたは自分の内側にある本当の声を押さえ込んでいます。あるいは考えることを放棄しているのです。

彼が本当に伝えたかったのは、「超人になれ」ではなく、「転んでもいいから、自分の足で立て」ということだったと、わたしは思う。完璧にできない日があってかまわない。怒鳴ってしまう日があっていい。大切なのはそこから何をつかむか。それを手に明日へ向かうことです。

完璧な親を目指す必要なんてありません。転んで、立ち上がる姿を見せること——。それ自体が、子どもへの何よりの贈り物です。

ボーヴォワール「その当たり前は、誰が決めたのか」

次に登場するのは、20世紀フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール。生涯を通じ、女性とは何かを問い続け、フェミニズムの礎を築いた人物です。哲学者サルトルと生涯のパートナーでありながら、結婚はしませんでした。自分の生き方を、最後まで自分で決めた人です。

彼女はこんな言葉を遺しています。

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」

これを今回のテーマに合わせて言い換えると、「完璧なお母さんなんて本当はどこにもいない。完璧なお母さんという理想像に自分を合わせているだけだ」ということになるでしょう。

ボーヴォワールが言いたかったのは、母性本能と呼ばれるものの多くは、社会が長い時間をかけて女性に植えつけてきた期待だということです。いつも穏やかで、子どもの気持ちを先回りして汲んであげて、家事も仕事もそつなくこなす——こんなイメージは自然に生まれたものではなく、誰かが作り上げたものかもしれません。

完璧でない自分はだめだと感じるとき、立ち止まって自分に問いかけるべきかもしれません。その完璧さの基準は、いったいどこから来たのか、誰が決めたのだろうかと。

老子「からっぽだからこそ、使いものになる」

三人目は古代中国の思想家、老子。生涯の詳細はほとんどわかっていない謎の人物ですが、その言葉は2500年を超えたいまも世界中で読まれています。「足るを知る」「無為自然」——。肩の力を抜いた、やわらかい知恵を持つ人物ですね。

老子ならこう言うでしょう。

「器は、からっぽだから水を入れられるのだ。完全に満たされた器には何も注げない」

老子の哲学の中心にあるのは、余白の大切さです。隙のない完璧さより、少し足りないくらいのほうが人をしなやかに強くする。

完璧な親であろうと意識しているとき、完璧であるための種々の条件が心をいっぱいにしています。子どもの笑顔に「ふふ」と笑い返す余裕も、夫の一言に「だよね」と言えるやわらかさも入る隙がありません。

老子が教えてくれるのは、だめな部分こそが人間のいちばんやわらかくて強い場所だということなのかもしれません。完璧でないからこそ、子どもと一緒に笑える。完璧でないから「ごめんね」と素直に言える。その余白が家庭の風通しを良くすることもあるのではないでしょうか。

葉山の食卓アドバイス

ニーチェ、ボーヴォワール、老子——。三者三様の答えが出そろいました。どれかひとつでも、「ま、そういう見方もあるかもね」と感じてもらえたらいいのですが。

ちゃんとしなくちゃ、と思っているとき、体は知らず知らずのうちに冷えてこわばっています。そんな夜に必要なのは、豪華な食事でも栄養満点のレシピでもありません。シンプルで温かく、自分を取り戻させてくれる食べ物です。

まずはご飯——できれば玄米をよく噛んで食べましょう。脳に穏やかなエネルギーが回り、「あれもやらなきゃ」「これもしなくちゃ」と散らばっていた気持ちが少しずつ一点に収束してきます。噛めば噛むほど、体の芯にどっしりとした軸が通ってくるでしょう。

つけ合わせには、根菜のきんぴらを勧めます。ごぼうやれんこんを炒めるだけでいい。地の中に根を張る野菜の力は、宙に浮いた気持ちをゆっくりと本来の場所に引き戻してくれます。

食後には梅しょう番茶を一杯。はい、またこれ(笑)。でも、これがいい。冷えた体を芯から温め、ばらばらの心と体をひとつにまとめてくれます。完璧主義で緊張しきった夜には、この一杯は何よりの特効薬になってくれますよ。

台所は小さな薬局です。ご飯と根菜と梅しょう番茶——。この三つがあれば、今夜の養生は完了です。

SNS映えはしません。栄養バランスも完全ではない。でもその一口をゆっくりと噛みしめて味わう姿は、お子さんに見せる最高の食育かもしれません。