バイトを終えて、その足で芦屋に向かった。
そのとき僕は初めて、震災の真新しい爪痕が残る神戸の街を見た。
目に見えるすべての建物が焼け焦げていた。ビルは倒壊し、瓦礫が散乱している。復旧が始まる前、重機による撤去作業が始まって間もない頃だ。僕は文字通り、言葉を失った。写真や映像で何度か見た「戦後の焼け野原」がそのまま広がっていたからだ。
玲子さんも同じ気持ちだったのか、ずっと押し黙っている。焦げくさい臭いがあたり一帯に漂っている。もしかしてこの臭いには人間の……。そんな考えが浮かび、慌てて振り払った。
被害のひどい地域は電車もまだ復旧していなかったから、僕らは電車を途中で降りて、焼野原の中を国道二号線まで歩き、バスに乗り換えた。そうやって芦屋まで行った。バスの窓から落下した高速道路も目にした。
いま思えば、奇妙な符合だった。霊の話を聞きに行く道すがら、僕は生まれて初めて、あれほどの死の景色の中を歩いたのだ。
その女性——芦谷さん(仮名)は、穏やかで上品な人だった。眼光だけがやけに鋭かった。背後に大きな祭壇がどんと据えられていた。仏壇ではなかったと思う。白っぽい木肌の、たぶん神道式の祭壇だったのではないか。ただ当時の僕にはそれを見分ける知識がなかったから、実際のところはわからない。
僕らは大きなテーブルを挟んで正座し、話が始まった。
芦谷さんによると、写真には霊が写っているという。ただ僕が考えていたのとはちがっていた。上から垂れる光の筋は、予想通り撮影者の前髪だったが、靄の中に見える顔のようなものは顔ではない。靄の中には着物姿の女性がいて、さらにその女性の目の中に水子の霊が見える――。
一枚の写真に霊が二体と聞いて、僕は混乱した。それでも聞いた。聞きたいことは山ほどあった。
その着物の女性は誰で、なぜ写真に写ったのか。うちの天井の音はなんなのか。
「ずっと昔の人みたいやね。地縛霊って知ってる? その土地で亡くなり、そのままそこに縛りつけられた人の魂。心残りや恨みがあって成仏できなかったんやね。それでカラオケボックスにずっとおった。あなたとはたまたま波長が合ったみたい。それでついてきた。悪意があるわけやないの。成仏したかっただけ。家がきしむと言うてたけど、それはあなたに自分の存在を知らせるため。あなたに行動を起こさせるため」
なぜ僕についてきたら成仏できるのか。
「霊には、その人のつながりが全部見えてるんよ。あなたはもともと霊感のない人やから、ほんまはこういう世界とは縁がない。でも、たまたまいのは玲子の近くにおる。玲子は私とご縁がある。それが全部わかってて、あなたについて行った。だから、あなたはいまここにおる」
水子の霊とはなんなのか。
「心当たりない? この一年くらいで、身近な女性が子どもを堕ろしたということはない?」
「ないです」
「ほんまにない?」
芦谷さんが僕の心の中を覗き込むような顔をした。
「ないです」
本当になかったのだ。
「まあ、ええわ。着物の女の人も水子も私がご祈祷して上げておく。あなたにもやってもらうことがある」
そう言って、芦谷さんはA4の紙を一枚、僕の前に置いた。見ると短い唱え事の下に二、三十行のお経のようなものが書かれていた。意味のわかる言葉だったから、もしかしたら神道の|祝詞《のりと》だったのかもしれないが、実際のところはいまとなってはわからない。
芦谷さんの指示は確かこんなふうだった。
毎晩、入浴前にこの言葉を最初から最後まで三回唱えること。それが済んだら浴室に入って、洗面器に水を張り、正座して目を閉じる、唱え言とともに、頭からその水をかぶる。お湯ではなく、水であること。それを一か月、毎晩続けること。
それを聞きながら、僕は何かの修行みたいだと思っていた。
「終わったら、またここに来なさい」
芦谷さんは最後にそう言った。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

