長い夜(第四章) 着物姿の地縛霊

被災地

バイトを終えて、その足で芦屋に向かった。

そのとき僕は初めて、震災の真新しい爪痕が残る神戸の街を見た。

目に見えるすべての建物が焼け焦げていた。ビルは倒壊し、瓦礫が散乱している。復旧が始まる前、重機による撤去作業が始まって間もない頃だ。僕は文字通り、言葉を失った。写真や映像で何度か見た「戦後の焼け野原」がそのまま広がっていたからだ。

玲子さんも同じ気持ちだったのか、ずっと押し黙っている。焦げくさい臭いがあたり一帯に漂っている。もしかしてこの臭いには人間の……。そんな考えが浮かび、慌てて振り払った。

被害のひどい地域は電車もまだ復旧していなかったから、僕らは電車を途中で降りて、焼野原の中を国道二号線まで歩き、バスに乗り換えた。そうやって芦屋まで行った。バスの窓から落下した高速道路も目にした。

いま思えば、奇妙な符合だった。霊の話を聞きに行く道すがら、僕は生まれて初めて、あれほどの死の景色の中を歩いたのだ。

その女性——芦谷さん(仮名)は、穏やかで上品な人だった。眼光だけがやけに鋭かった。背後に大きな祭壇がどんと据えられていた。仏壇ではなかったと思う。白っぽい木肌の、たぶん神道式の祭壇だったのではないか。ただ当時の僕にはそれを見分ける知識がなかったから、実際のところはわからない。

僕らは大きなテーブルを挟んで正座し、話が始まった。

芦谷さんによると、写真には霊が写っているという。ただ僕が考えていたのとはちがっていた。上から垂れる光の筋は、予想通り撮影者の前髪だったが、靄の中に見える顔のようなものは顔ではない。靄の中には着物姿の女性がいて、さらにその女性の目の中に水子の霊が見える――。

一枚の写真に霊が二体と聞いて、僕は混乱した。それでも聞いた。聞きたいことは山ほどあった。

その着物の女性は誰で、なぜ写真に写ったのか。うちの天井の音はなんなのか。

「ずっと昔の人みたいやね。地縛霊って知ってる? その土地で亡くなり、そのままそこに縛りつけられた人の魂。心残りや恨みがあって成仏できなかったんやね。それでカラオケボックスにずっとおった。あなたとはたまたま波長が合ったみたい。それでついてきた。悪意があるわけやないの。成仏したかっただけ。家がきしむと言うてたけど、それはあなたに自分の存在を知らせるため。あなたに行動を起こさせるため」

なぜ僕についてきたら成仏できるのか。

「霊には、その人のつながりが全部見えてるんよ。あなたはもともと霊感のない人やから、ほんまはこういう世界とは縁がない。でも、たまたまいのは玲子の近くにおる。玲子は私とご縁がある。それが全部わかってて、あなたについて行った。だから、あなたはいまここにおる」

水子の霊とはなんなのか。

「心当たりない? この一年くらいで、身近な女性が子どもを堕ろしたということはない?」

「ないです」

「ほんまにない?」

芦谷さんが僕の心の中を覗き込むような顔をした。

「ないです」

本当になかったのだ。

「まあ、ええわ。着物の女の人も水子も私がご祈祷して上げておく。あなたにもやってもらうことがある」

そう言って、芦谷さんはA4の紙を一枚、僕の前に置いた。見ると短い唱え事の下に二、三十行のお経のようなものが書かれていた。意味のわかる言葉だったから、もしかしたら神道の|祝詞《のりと》だったのかもしれないが、実際のところはいまとなってはわからない。

芦谷さんの指示は確かこんなふうだった。

毎晩、入浴前にこの言葉を最初から最後まで三回唱えること。それが済んだら浴室に入って、洗面器に水を張り、正座して目を閉じる、唱え言とともに、頭からその水をかぶる。お湯ではなく、水であること。それを一か月、毎晩続けること。

それを聞きながら、僕は何かの修行みたいだと思っていた。

「終わったら、またここに来なさい」

芦谷さんは最後にそう言った。