長い夜(第二章) 一枚の心霊写真

トンネル

試験は無事に終わった。実家に戻った僕は、解放感に浸っていた。

その頃、仲の良い友人とインカレサークルを運営していたから、試験明けを祝して飲み会を開くことにした。

三十人ほどが集まり、大いに盛り上がった。そのあと僕と友人と、女性スタッフ二人の四人で、打ち上げをすることにした。カラオケボックスになだれ込み、喉が枯れるまで歌って騒いだ。

そのとき撮った写真を数日後に現像したら、一枚だけ奇妙なものが写っていた。写真の上のほうから、僕に向かって光の筋が幾本も垂れ下がり、マイクを持っていた僕の右手が、白い靄にすっぽり包まれていたのだ。その中に顔のようなものが見えた。

——まさかこれ、心霊写真ってやつ?

そう思ったが、即座に否定した。怪談話は好きだ。でも僕は、幽霊や心霊現象の類いは信じていなかった。だから、きっと現像の際に何かトラブルがあったのだろう。あるいは撮影した子の前髪がレンズにかかっていたのかもしれない。そう判断して忘れることにした。

ただ、いま振り返ると信じていなかったわけではない。否定したかっただけだ。心のどこかに、そういうものを無意識に恐れる気持ちがあったのだ。

そう思う理由もある。

サークルに新しく入ってきた北川さんという女の子がいた。夏のバーベキュー大会の解散後、残った数人で、海岸で怪談話を始めた。

一人ずつ怪談を披露する。やがて彼女の番が回ってきた。

少し離れた場所にある、沖に向かってまっすぐ黒い線のように伸びる堤防を指さした。

「あそこ、人がいっぱい埋まってるらしいよ」

それから訥々とつとつと人柱について語り始めた。

昔は堤防や橋などを築く際、工事の安全を願い、災害を防ぐために生きた人間を水中に沈めていた。水神さまにいけにえを捧げるためだ。いわゆる人身御供である。アニミズムの文化を持つ地域ではよく見られる因習で、日本でも近代くらいまで行なわれていたそうだ。

話はさらに続いた。これまで聞いてきた怪談とはまったく毛色がちがった。なんとなく文化的な香りがしたし、話術も巧みだった。だから僕はいつしか、一言一句漏らさぬよう身を乗り出していた。

ひとしきり話が終わり、北川さんは最後に僕らに忠告した。

「そやから、あの堤防には近づいたら絶対にあかんよ。昼間でもあかん。まだおる」

おるって何が、と誰かが聞いたが、聞いていない様子で、彼女は黙って堤防を見つめていた。

作り話にしてもよくできていた。僕は感心してしまい、自然に拍手をしていた。すると北川さんはこちらを見て、目を大きく見開いてから少しはにかんだ。

雨がぽつりぽつりと降り出していた。海から涼しい風が吹いてくる。蒸していた大気がすっと冷めていく。

翌週、僕は彼女と食事に出かけた。

土曜の夕方、須磨の近くの、海が見えるレストランバーに行った。魚介のパスタや肉料理に舌鼓を打ち、お酒を飲み、共通の知り合いの噂話で盛り上がった。時折、僕の話を聞いているのかいないのか、彼女が返事をしないことがあって、それが少し気にかかっていた。

その日、北川さんは「他の人には話してないんやけど」と前置きし、こんなことを打ち明けてくれた。

彼女の家系の女性は代々、霊感が強く、いわゆる「見える」体質だという。最初に霊を目撃したのは五歳で、人の形をした、人ならぬ何かが家の中をゆっくり移動していた。

彼女はその場に凍りついたようになり、息を潜めて物陰から見ていた。そいつはやがて壁の向こうへすっと消えて行った。そこへ母親が帰ってきた。泣きながら一部始終を話すと、母は黙って彼女を近所に住む祖母の家へ連れて行ったのだそうだ。

そうして二人は驚きもせず、箪笥の抽斗の奥からあらかじめ用意してあったと思しきお守りを取り出し、彼女に手渡したという。以来、彼女はそれを肌身離さず身につけている。

飛び降りの多いことで知られる、複数の棟が建ち並ぶ大きなマンションに彼女は住んでいた。いまも日常的に霊を見ると言っていた。

血まみれの男が玄関から入ってくる。窓の向かいの棟から、人が飛び降りるのを繰り返し見る。どさっ、という音が聞こえ、下のアスファルトに血だまりが広がっていくのも見える。

彼女の話は筋が通っており、やはりどこにもほころびがなかった。先日の海岸で聞いていたら、たぶん全身が総毛立っていたことだろう。でもそのときは店内に陽気なボサノバが流れ、他の客も皆楽しそうに歓談していた。酒の力も手伝って、不思議と怖いとは感じなかった。

店を出る頃には、日がとっぷりと暮れていた。

人気のない海岸沿いの歩道を、大声でしゃべりながら歩いていた。僕が時々ふらついて彼女の右側に行くと、彼女はすっと僕の右側に体を移した。それが数度続き、彼女が申し訳なさそうな顔をした。

「私、右の耳が聞こえへんねん。そやから右側から喋られても聞こえへんことがある。もし何回か無視してたらごめんな」

ああ、そういうことか。以前にも何度か、今夜も何度か心当たりがあったから、その場面をひとつひとつ思い出していたら、突然、その場の空気が変わった。

彼女を見ると、張り詰めた顔をしていた。

ちょうど高架下の狭いトンネルに入ったところだった。周囲には誰もいない。トンネルの中に灯りはなく、背後の街灯の光が弯曲した壁に僕たちの歪んだ影を大きく映し出していた。それがゆらゆらと揺れている。

彼女は何も言わなかったが、僕にはわかった。ここに何かがいるのだ。この子には見えている。

一瞬にして酔いが冷めた。彼女が別世界の住人に思えた。薄気味が悪いと感じた。彼女に悪い。彼女に罪はない。もちろんわかっていたが、どうにもならなかった。

北川さんと会ったのは、その日が最後だった。

つまり僕は、霊や心霊現象と関わりを持ちたくなかっただけなのだ。信じないと決めていれば、関わらずに済むと思っていた。関わってしまいそうになったら、脇目もふらず逃げ出した。怪談話は好きでも、自分がその物語の登場人物にはなりたくなかったのだ。

けれど——。

逃げようとしても逃げられないことがある。向こうから狙いを定め、近づいてくることがある。僕はこのあとすぐ、そのことを身をもって知ることになった。