山の上のカップ麺——子連れ登山にいちばん効く切り札

山頂でカップ麺を食べる父と娘

子どもにはふだんカップ麺を食べさせない。

日頃から無添加だの自然食だの言っている家である。食卓には出汁を引いた味噌汁が並び、おやつは果物や煎餅だ。そういう家の戸棚にカップ麺の買い置きはない。

ただし、例外がひとつだけある。

山だ。

カップ麺という切り札

登山の日の朝、我が家では小さな儀式が行なわれる。ザックを開け、カップ麺を収める儀式である。執り行なうのは娘だ。彼女はスーパーでみずから選んだ一個を、両手で壊れものでも扱うようにそっと入れる。その目の輝きといったらない。遠足の前夜に枕元へリュックを置く、あの顔である。

いつもは出汁だの発酵だのと語っている男の背中にカップ麺が入っている。矛盾と言われたら返す言葉もない。だがこの矛盾こそが、我が家の登山を支えているのだ。

なにしろ登りで効く。

子どもの足は正直だ。飽きれば止まる。「疲れた」「あとどれくらい」「帰りたい」——これが始まったら、景色の美しさを説いても無駄だ。木漏れ日がきれいだよ、と言ったところで、娘の足は一歩も進まない。

そこで僕は切り札を出す。

「上で、カップ麺が待ってるぞ」

足が動く。

現金なものだ。馬の鼻先ににんじんというが、うちの娘はカップ麺で前進する。標高差にして数百メートルぶんは、あの一個が押し上げていると思う。カロリー表示には出てこない熱量だ。

湯を注いで三分、至福のひととき

やがて山頂に着く。

眼下に街並みが広がり、遠くの尾根が霞み、雲が足の下を流れていく。僕は言う。「見てごらん、すごい景色だぞ」。娘は「ほんとだあ」と三秒ほど眺め、それから僕のザックの前に正座する。彼女の視線の先にあるのは絶景ではない。バーナーの上の、湯を沸かしている小さな鍋である。

雲海が鍋に負けている。

湯が沸く。注ぐ。ふたをして三分。この三分間の娘は、おそらく一年でいちばん行儀がいい。時計もないのに「まだ?」とも言わず、ただじっとふたを見つめている。学校の授業でこの集中力を発揮したことは、たぶんない。

ふたを開ける。湯気が上がる。すする。

「んん!」

言葉になっていない。だが、わかる。うまいのだ。実際うまい。白状すると、僕も隣で塩むすびを頬張りながら、一口もらって、うまい、と唸る。汗をかいた体に塩気と熱い汁が染みわたっていく。日頃の出汁はどうした、と我ながら思う。だが、うまいものはうまいのだ。

汗と疲れが最強の調味料に

山には最強の調味料がある。

自分の足で登ってきた、という調味料である。麓からの数時間とかいた汗のぶんだけ、うまさは増す。体を使ったあとの食事はなぜあれほど口福を感じるのか。理由はいろいろ言えるのだろうが、山頂で娘の横顔を見ていれば答えは出ている。体をぜんぶ使った日の食べものを、体はぜんぶで受け止める。そういうことなのだろう。

帰りの車の中で、僕は娘に聞いたことがある。

「今日の山、何がいちばん良かった?」

景色か、頂上に着いた瞬間か、それとも吊り橋か。

「カップ麺」

即答だった。数時間かけて登った山の思い出が、三分でできる麺に負けた。父としては複雑だが、興行主としては納得もしている。あの一杯は彼女が自分の足で勝ち取ったのだ。負けるのも無理はない。

山限定の最高級のごちそう

僕はカップ麺を禁止しているつもりでいた。でも娘の顔を見ているうちに考えが変わった。僕は禁止していたのではない。カップ麺を山でしか食べられない希少なごちそうに仕立て上げていたのである。

戸棚にいつでもある家のカップ麺と、標高千メートルの上でしか出会えないカップ麺。同じカップ麺でもまったく別の食べものだ。結果として、娘にとっては我が家で最高級の外食になっている。

禁止は不満を作る。

例外は祭りを作る。

だから娘は、家でカップ麺を食べたいと駄々をこねたことが一度もない。あれは山の食べものだと彼女の中で整理がついているらしい。戸棚に置けばただの買い置きになるものが、山の上では年に数回の祭りになる。どちらが贅沢かは言うまでもあるまい。

次の山を娘がもう調べ始めている。お目当ては山なのか麺なのか——。聞くだけ野暮である。