世界は小麦でできていた——グルテンフリー1年間の実践記

小麦製品であふれるスーパー

一時期、グルテンフリーというものをやっていた。体調がどん底だった頃、藁にもすがる思いで始めた実験のひとつだ。

ルールは単純だ。小麦をやめる。たったそれだけ。パンを我慢すればいいんでしょ、と僕も最初は思っていた。

甘かった。

やめた初日、世界の正体が見えた。うどん、ラーメン、パスタ、そうめん。餃子の皮、天ぷらの衣、とんかつの衣。カレーのルー、シチューのルー。お好み焼き、たこ焼き、肉まん。クッキー、ケーキ、ドーナツ。醤油にまで小麦が入っている。ビールは大麦だが、これもだめだという。麩にいたっては、字の中に麦が住んでいる。

世界は小麦でできていた。

それまで僕は、小麦を意識して食べたことなど一度もなかった。あって当たり前で、ありがたいと思ったこともなかった。失って初めてその存在の大きさに気づくのは、人も食べ物も同じである。

スーパーに行くと、棚という棚が小麦だった。買えるのは野菜と魚と肉と米。気づけば僕の買い物かごは、江戸時代になっていた。

家族はふだん通りに食べている。朝、台所にトーストの匂いが漂う。あれは罪深い匂いである。焼ける小麦の香りというのは、人類が一万年かけて磨き上げた誘惑なのだ。一万年ぶんの誘惑に、僕は一人で立ち向かっていた。

一度、米粉でパンを焼いてみたことがある。レシピ通りに作ったのに、出来上がったのは白いレンガだった。落とすと、パンとはちがう音がした。娘が一口かじって、静かに皿に戻した。何も言わなかった。彼女なりのやさしさであろう。

不思議なもので、三か月もすると体は軽くなった。けれど、それが小麦のせいなのか、単に食生活ぜんぶが整ったせいなのかはいまもわからない。代わりにはっきりわかったことがある。ただ、断ってみて初めて見えたのは、小麦の罪ではなく、小麦の偉大さのほうだった。

一年ほど続けて、僕はやめた。理由はいくつかあるが、いちばん大きいのは、パン屋の前で立ち尽くす自分がいやになったからだ。ショーケースの向こうのクロワッサンを、敵を見る目で睨んでいた。食べ物を敵として見ている人間の顔はたぶん、あまり健康そうではない。

解禁の日に選んだのはうどんだった。近所の店で、素うどんを頼んだ。出汁の湯気の向こうで麺が白く光っていた。一口すすって、僕は箸を置いた。うますぎる。一年ぶりの小麦は、ほとんど初恋であった。

感動に浸っていると、向かいで天ぷらうどんをすすっていた妻が言った。

「で、結局、小麦は体に悪かったの?」

僕は答えなかった。答えられなかったのではない。口がうどんでふさがっていたのである。