凶を引いた男が、境内でいちばん真剣だった

凶を引いた父

ある年の初詣で、僕は凶を引いた。

家族三人で順番に引いて、妻が中吉、娘が大吉、僕だけが凶。二人はおみくじを開いたまま、僕の顔と紙を見比べて、実にいい笑顔をしていた。人の凶は、どうしてああも他人を明るくするのか。

「引き直そうかな」僕が冗談めかして言うと、「だめ。ズルしても神さまにはバレる」と娘が真面目くさった顔で答える。

「二百円でやり直せる人生なんてないの」妻が屋台の甘酒をズズッとすすった。

正月からいい言葉をもらってしまった。おみくじより効く。

聞いた話では、おみくじの吉凶の順番は、神社によってちがうらしい。吉が中吉より上の社もあれば、下の社もある。凶の比率もまちまちだ。僕らがいた浅草寺は、凶がよく出ることで知られている。つまり僕は、引く場所からして運がなかった。

さて、凶を引いたらどうするか。木や結び所に結んで帰るというのが一般的である。神さまと縁を「結ぶ」に掛けているそうだ。凶は利き手と逆の手で結ぶと、その困難が修行となって吉に転じる、こんな言い伝えもあるという。

やってみた。

一月の境内で、かじかむ左手だけで、薄い紙を細い枝に結ぼうとする。けれど、つるつると滑ってしまって思うようにいかない。紙がカサカサ頼りない音を立てる。背後からは順番を待つ人たちの無言の圧力。

小さなおみくじ相手に大真面目に格闘している父を見かねたのか、娘が「手伝おうか」と声をかけてきた。僕は毅然と「いやいい。修行にならない」と返した。結局、親の威厳と引き換えに、みっちり五分かけて結び終えた。確かに修行であった。

それにしても、と境内を見渡して気づいた。

大吉を引いた者は、ろくに読まない。さっと畳んで財布にしまい、もう屋台のほうを向いている。現にうちの娘がそうだった。いちばん長く、いちばん真剣におみくじを読んでいるのは、凶を引いた者なのだ。待ち人、来たらず。失せ物、出がたし。病、長引く。一言一句、隅から隅まで、二度三度と読み返す。

つまり、おみくじとは占いではないのだと思う。年に一度、神さまの言葉を真剣に読む時間なのだ。そして凶は、いちばん熱心な読者を作る。大吉は財布の中で一年眠るが、凶は一年、心のどこかに残る。ことあるごとに思い出しては、少し襟を正す。どちらが御利益なのか、本当のところはわからない。

翌年の初詣で、僕はまた凶を引いた。家族は今年も、実にいい笑顔をしていた。僕は黙って左手で紙を結んだ。今度は一分で結べた。一年で上達したのは、結び方だけであった。