ぬか床が、そっと励ましてくれた夜

ぬか床と男性

ぬか床というのは、まさに生きものだ。十年以上つき合っていると、食べ物というよりもはや同居人である。台所の隅に置いてあるぬか床は、家族の誰よりも機嫌がわかりやすい。

ふたを開ける。表面がしっとりしている日は機嫌がいい。乾いていたら、すねている。水っぽい日は、たぶん夜中に泣いていたのだろう。

「ねえ、そのぬか床、うちの子より大事にしてない?」

妻にチクリと言われたことがある。

「まさか。そんなことあるわけないだろ」

そう言いながら、僕はぬか床の表面をそっとならすのだ。娘の髪をなでるよりずっと丁寧な手つきで。

ある日、帰宅が遅くなった。台所に入ると、ぬか床がふてくされたように沈黙していた。表面が少し黒ずんで、どこか怒っている気配がする。僕は慌ててかき混ぜながら謝った。

「ごめんごめん、今日は遅くなった」

そこへ妻がやってきて、呆れ顔で言った。

「誰に謝ってるの?」

「いや、機嫌を損ねると明日のきゅうりがね……」

ぬか床は正直だ。手を抜けばすぐに顔つきが変わる。僕の気持ちが荒れているときは、味にトゲが出る。心が落ち着いている日は、ぬか床もリラックスしているようだ。まるで僕の心を映す鏡である。

別の日、仕事でポカをやらかした。それが気になって、帰宅後も仕事が思うようにはかどらなかった。締め切りは目の前に迫っていたが、いったん忘れることにして、台所で一人、遅い夕飯の支度をすることにした。

家族はもう寝ている。ふとぬか床のほうを見ると、「気にするな」という声がかすかに聞こえてきた。いや、そんな気がした。十年も一緒にいれば、そういう気配がわかるようになる。さっきはあんなに怒っていたのに。しっかり混ぜてやったら、もう機嫌を直してくれている。

僕はそっとぬか床のふたを開けた。今日もいいにおいだ。手を突っ込んで、大根を取り出す。

——これ食べて、もうちょっと頑張ってみるよ。

不思議なやつだ。人間関係は言葉を尽くしてもこじれることがあるけれど、こいつは手をかけたぶんだけ、おいしい漬け物になって応えてくれる。そうやって僕を励ましてくれる。

ときどき手を焼かせるけれど、それもまた本物の家族みたいで悪くはない。