手が覚えていること——デジタルの海で失われつつあるもの

ぬか床

夜、台所に立つ。

ぬか床のフタを開ける。酸いにおいが鼻をかすめる。腕まくりし、素手をそっと差し込むと、温かい。湿り気が多い。今日は発酵が活発だ。底からひっくり返す。ぬかを足し、唐辛子を二本入れ、もう一度混ぜる。

ぬか床の手入れにマニュアルはない。アプリもない。水分量、固さ、匂い——全部、体が覚えている。

デジタル化できない領域が、ここにはある。

ITの海で、気づいたこと

僕はかなり早い段階からITの世界に触れてきた。

中学ではMSXでプログラムを書き、高校ではPC-9801を触り、インターネットも公衆電話回線のころから使っていた。いまの子を「デジタルネイティブ」と呼ぶなら、僕らは「デジタルネイティブOB」だろう。

だからIT技術に抵抗はない。むしろ恩恵を受けてきた側だ。

それでも、デジタルの海を長く泳いできたからこそ感じる不安がある。便利さと引き換えに、人間が長い進化の過程で獲得してきた何かが、静かに痩せていくのではないかという不安だ。

手と五感を使って世界に触れる力が、急速に錆びついていくような感覚。

デジタルは便利だ。でも、世界を「平ら」にする

街を歩けば、みながスマホを体の一部のように操っている。だが、トラブルが起きたときに自分で対処できる人はどれだけいるだろう。

触れなくても、匂わなくても、温度を知らなくても、生活は回る。便利さは世界を「平ら」にする。

そのとき、人間のどこかが静かに痩せていく。

まず紙に書くということ

文章を書くとき、僕はまず紙に書く。

万年筆にインクを充てんし、ノートを開く。手で書くと、思考の速度が落ちる。
その「遅さ」が、僕には必要だった。

書き損じた文字が残る。その跡が、次の言葉へのヒントになることもある。

デジタルでは消えてしまう「軌跡」が、紙には残る。

手は、記憶する

ぬか床を混ぜる。料理をする。紙に書く。どれも手を使う行為だ。

手には手の記憶がある。

レシピはデジタルにできる。でも、塩梅を確かめる微妙な感触はデータにならない。職人が「こんな感じ」としかいえないものは、手から手へしか渡せない。

ぬか床が、まさにそうである。

このブログでもぬか漬けの作り方を書いているが、伝えきれないものがある。
水分量、発酵の進み具合、今日の温度と昨日の匂いの微妙な差——それは体で覚えるしかない。

ぬか床に戻る

ぬか床のなかで素手を泳がせながら、ふと思う。

これは、抵抗なのかもしれない。デジタルに頼りすぎる暮らしへの、静かな抵抗。

手と五感を使って世界と直接関わるという、人間がずっと続けてきた営みを、台所で毎晩取り戻しているのかもしれない。

大げさだと思われるかもしれない。僕もそう思う。ただぬか床を混ぜているだけだ。

でも、手で何かをつくる行為は、人間の根っこにある。その延長線が、いま切れかかっている。

だから、混ぜる。

毎晩、素手で。世界とつながり直すために。