前の晩、台所に立って、弁当箱におかずを詰める。
ご飯は詰めない。翌朝、妻が詰めることになっているからだ。ふたをして冷蔵庫に入れ、台所の電気を消して書斎に戻る。
世間ではよく弁当や料理を「愛情を込めて作る」と言うけれど、そんなふうに考えたことは一度もない。
からっぽの頭で淡々と作っている。
料理の最中、わが心は明鏡止水の如しである。
この記事に書いていること
終わらなかった弁当作り
妻の弁当を作り始めたのは、結婚してしばらくしてからのことだ。料理はもともと好きだったし、深く考えずに始めた。気がつけば十五年が経っていた。
娘が高校に入学したとき、ようやく弁当作りから解放されると思った。妻が「これからは私が作る。娘のためなら早起きして頑張る」と宣言していたからだ。それはそれは力強い宣言で、愛情にあふれていた。
ところが実際に娘の高校生活が始まってみると、妻は会社員で朝は忙しく、僕は夜型で前の晩に作るほうが効率がいい。少し手伝っていたら、いつの間にか週三日、僕が担当することになっていた。
狐に化かされたみたいだった。
作り置きで上手に手を抜く
毎日ぜんぶを手作りしているわけではない。そんなことをしていたら続かない。だから仕組みを作った。
まず、作り置きを一品だけ用意する。きんぴら、根菜の煮物、五目煮、なす味噌あたりが定番だ。これがあるだけで、弁当を詰める時間がぐっと短くなる。
冷凍野菜も使う。ブロッコリー、かぼちゃ、枝豆——。緑や黄色が足りないときに使うと、弁当全体がなんとなく華やいで見える。夕飯のおかずが余ったときは、保存袋に入れて冷凍しておく。弁当の隙間を埋めたいとき、チンして加えるだけだ。
焼きそばに生椎茸
中学、高校と、母が毎日弁当を作ってくれたことは前に書いた。野菜と魚が中心の、いかにも体に良さそうな弁当だった。加工食品はほとんど入っていなかった。
そんな母の料理の中でいまだに鮮明に覚えているのが、椎茸と焼きそばの事件だ。大好物の焼きそばに、ある日、生椎茸が入っていたのだ。椎茸を食べさせようと、母が黙って混ぜたのだった。
相性の悪さといったらなかった。たとえるならカレーのグリーンピースか。カレーは悪くない。グリーンピースも悪くない。でもこの組み合わせで子どもの箸は止まる。椎茸と焼きそばが出す不協和音はそれをはるかにしのぎ、耳をふさぎたくなるほどだ。
その日から焼きそばが苦手な食べ物になった。食卓にのぼるたび、ため息が出た。
料理はバランス感覚である。
だから僕は、娘の弁当に嫌いなものを入れない。おいしいと思いながら食べるほうが、栄養価の高いものを嫌々食べるよりずっと体に良いと思うからだ。だいいち特定の食材からしか摂れない栄養素などない。
好物も一品、かならず入れるようにしている。サバの塩焼きの日にはウインナーも少し、という具合だ。定番は、にんじんのしりしり。細切りにしたにんじんをたっぷりの油で炒めるだけ。味つけは塩のみ。弱火でじっくり炒めるだけで、にんじんは甘く香ばしくなる。娘の好物である。青椒肉絲にいたっては、彼女の大好物につき週一で登場する。
妻のLINE、娘の沈黙
妻はいつも、昼食前にLINEで感謝を伝えてくる。たまに加工食品や冷凍食品を入れると、それが途絶える。無言の判定がくだるのだ。正直な人である。
娘は何も言わない。「学校でいつもおいしそうだねって言われてる」と一度だけ教えてくれたが、それっきりだ。帰ってきても、感想のひとつもない。そんなものだろう。僕もそうだった。
弁当は愛情表現ではない
弁当は家族への愛情表現のひとつ、こんな気負いなどなくとも、倦まず弛まずやっている。習慣と呼ぶには少し温かく、義務と呼ぶほどたいそうなものでもない。
台所でおかずを詰めながら、明日の昼のことをぼんやりと思う。弁当を食べるふたりの顔をなんとなく思い浮かべる。それが十五年間、続いている。
ある晩、ピーマンにしらすを和えていたら、タツノオトシゴの赤ん坊を見つけた。ふっと心がゆるむ。弁当作りは時々、僕にこういう喜びのかけらをくれる。弁当作りも悪くない。











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