必要に駆られて、基地ができた。——台所という小さな思想

機能的なキッチンの収納

いまのマンションに越してきたとき、台所はがらんとしていた。

システムキッチンの上下に棚があり、シンクとコンロと小さな作業台がある。それだけだ。どこに何を置けばいいのかわからない。料理をしようとすると、必要なものが見つからない。あっても、すぐに手が届かない。

これは不便だ、と思った。

そこから始まった。

広い台所と、狭い台所

実家はリフォームして、きれいな「見せない収納」になっている。扉のなかに全部おさまる。すっきりして、美しい。

田舎の一軒家だから広いのだ。広さがあると、多少物があっても、空間がそれを受けちめてくれる。ごちゃつきが気にならない。

うちのマンションの台所は、実家の半分以下のスペースだ。パントリーもない。同じことをやれば、ただ使いにくい場所になる。

だから考えた。狭いなら狭いなりの、整え方がある。

基地化の記録

まずコンロのそばに棚を設置した。よく使う鍋とフライパンとバットを、すぐ手の届く場所に置いた。

次にコンロ奥の壁にフックを取りつけた。フライパンのふた、木べら、小さなフライパン、味噌を溶くお玉——そういうものが壁にならんだ。道具が見える場所に出てきた日、台所が少し変わった気がした。

シンク周りにも棚をつくり、調味料を置けるようにした。棚の下にもフックを通して、お玉、穴あきお玉、メジャーカップ、トング、フライ返しをぶら下げた。料理中によく使う順に、手が自然に伸びる場所に。

冷蔵庫の側面にはキッチンペーパー、ラップ、クッキングシート、アルミホイルが取り出せる仕掛けをつけた。その下には計量スプーン、ピーラー、おろし金、ハサミがぶら下がっている。料理酒、みりん、醤油、酢、各種のオイルも、手の届く場所にある。

気づいたら、台所は基地になっていた。

はやま

コックピット、操縦席、とも考えたけどどれもちょっとちがう。やっぱり基地だ。自分だけの基地。

清掃員のおじさんの賞賛

マンションでは年に一度、水回りの清掃がある。

ある年、業者の方が台所を見て、妻にこういった。「機能的できれいに整理整頓されてますね。奥さんのお料理はさぞかしおいしいんでしょうね」

妻は否定しなかった。

わたしは廊下で黙ってそれを聞いていた。

うれしかった。

台所を整えるとき、何かが始まっている

昔から整理整頓が好きだ。台所だけでなく、書斎もそうだ。ものを置く位置には、すべて意味がある。

道具の場所を体が知っていると、料理中に考えなくていい。切る、炒める、煮る、味をみる、そんな動作のあいだに、よけいな断絶がない。手が動きながら、頭はからっぽで、静まりかえっている。いまここに、ただ存在している。

わたしにとって、台所はそういう場所でもある。

「見せない収納」は美しい。でも扉を開ける時間が、料理のあちこちに積み重なる。そういう設計は、料理を「作業」にする気がする。

道具にすぐ手の届く台所は、料理を「流れ」にする。

たまに配置をいじる。そのたび少し気分が変わる。棚を動かすだけで、動線が変わる。使う順番が変わる。台所が少し、また自分のものになる。

場所を整えることは、自分の思考の順番を整えることに似ている。どこに何があるかを決めることは、何を大切にするかを決めることでもある。

台所を整えるとき、料理はまだ始まっていないのに、もう何かが始まっている。

がらんとしていた台所が、基地になるまで——。その過程は、台所を整えていたのではなく、自分の思想をつくっていたのだと思う。

たぶん人生も同じだ。どこに何を置くかを決めるところから始まるのだろう。

はやま

料理のためだけではありません。生活の中心が、ゆっくりと形を持ちはじめた時間でした。自分の居場所をまたひとつ見つけた気がしています。