子どものころのある夜、テレビから流れてきたあの主題歌が、なぜかいまもときどき頭のなかで鳴りひびく。どんなアニメだったか、内容はまったく覚えていない。メロディだけが、何十年もたったいまも、耳の奥からふいに聞こえてくる。
本を読んだのは、ずっとあとのことだ。
子育てや子どもに関する記事をよく書くようになり、子ども向けの映画の試写会にも足を運ぶようになった。自然と児童文学を手にとる機会が増えた。その流れでミヒャエル・エンデの本を片端から読んた。『モモ』に打ちのめされ、『はてしない物語』に迷い込み——そうして、ようやく『星の王子さま』に辿りついたのだ。最初にアニメを観てから何十年越しに。
書斎でひとりで読んでいて、声が出た。
「深い」
仕事柄、年間に数百冊は読む。だが、そんなふうに感じる本に出会えるのは、一年に一回あるかどうかだ。
内容は覚えていないが、何かが残っている
正直いうと、もう物語の細部はあまり覚えていない。王子さまがどの場面でどんな言葉を語ったか。聞かれてもほとんど答えられない。でも、あの本を読んだときの感覚だけは、はっきりと自分のなかに刻みつけられている。
いつも読んでいる本と違って、「情報」でなく「体験」を与えてくれたからだと思う。情報は忘れたら消える。体験は、いつまでも体に残る。水泳を10年やらなくても、泳ぎ方を体が忘れないように。
読んだ人のなかに種をまく本だった。その種がなにかは、人によって異なる。すぐには芽も出ない。長い月日をかけて、読者の人生という土のなかで、静かに育っていく。
「いちばんたいせつなことは、目には見えない」
本書でもっとも有名な言葉といえば、キツネが王子さまにいうこの言葉だ。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目には見えない」
児童文学の名言として有名すぎるくらい有名で、カレンダーや手帳にもよく載っている。だから「またこれか」と流してしまいがちな言葉だが、僕にとってはある種の警句となっている。
僕の仕事は、おもに目に見えるものを扱う。文字、図版、レイアウト、数字……。そういうものに毎日取り囲まれている。そんななかで感じるのは、目に見えないけれどたしかに存在しているものの存在だ。たとえばこうして文章を書いていても、一つひとつの文のあいだにこそ大切なものが潜んでいるという感覚がある。
だから書きながら、あるいは書いたあとも繰りかえし声にだして読む。そうすることで、目に見えないなにかを心で感じとる。感じとれないならいちから書きなおす。
最も注意を払うべきは、その行間なのだと、キツネは僕にいいきってくれる。
バオバブの木のこと
王子さまが住む小さな星には、バオバブの木の種が落ちてくる。バオバブは放っておくと星を割ってしまうほど大きく育つ。だから小さいうちに毎日抜いてしまわなければならない。ところが小さいうちは、バラの芽とそっくりで見分けがつかない。
この話を僕は、育児や教育のメタファーとして受けとっている。
子どものなかにも、バオバブの種は落ちてくる。孤独、比較する心、自己中心性、執着——。小さいうちはかわいらしい芽に見えて見過ごしてしまいがちだ。だが放っておくと、その子の内側で大きくなり、やがてなにかを壊していく。
育児や教育というのは、植えるよりひっこ抜いてあげることのほうがずっと大切かもしれないと、僕は思う。学校や塾や習い事でなにかを詰め込もうとするより、子どもの心に芽吹いたバオバブをできるだけ早く発見し、やさしくとりのぞいてあげる——。
僕自身、娘を育てるなかでほとんど意識せずやってきたことでもある。サン=テグジュペリの言葉はそんなかたちで僕のなかに実を結んでいるような気がする。
「あなたのバラが大切なのは、あなたが時間をかけたからだ」
キツネはもうひとつ、大切なことを教えてくれる。
王子さまが「自分のバラは特別だ」と思っていたのに、地球には同じバラが5000本も咲いている庭があると知って傷ついてしまう場面。キツネはこういって慰める。「あなたがあのバラのために費やした時間が、あのバラをかけがえのないものにしているんだよ」
人間関係の本質をひと言で語っている。
自分とって「かけがえのない人」というのは、その人の客観的な評価が高いからではない。時間をかけてていねいに関係を築いていったからこそ、その相手は替えのきかない大切な存在になる。裏返せば、かけがえない存在を手に入れるには、時間をかけて育てていくほかない。
子どもとの時間も、夫婦の時間も、友人との時間も、そういうものではないだろうか。効率とか生産性とか、そんな言葉と正反対の場所に、いちばん大切なものはある。
読み返す必要はない
これを書きながら思う。『星の王子さま』を読みかえすことはもうないだろうと。
あの本はもう外の世界ではなくも僕の内側にある。
あなたにも、そういう本があるならぜひ教えてください。
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