習い事、いくつが正解なんだろう——哲学者三人に相談してみたら

習い事に行く少女

子どもにいくつ習い事をさせていますか。

ピアノ、水泳、英語、習字——。週に何日か送り迎えをして、月謝を払って。忙しい中でやりくりしている。それなのに、ふと気づくと子どもの顔が楽しそうでない。そんな夜、「これでよかったんだろうか」という問いが浮かんでくることはないでしょうか。

習い事の悩みは、複雑です。お金の問題だけではない。時間の問題だけでもない。「やらせておかないと遅れをとる気がする」という焦り、「本当は子どもがかわいそうかもしれない」という罪悪感、そういうものが複雑にからみ合っています。

そこで今回は、この悩みを三人の思想家にぶつけてみました。ストア哲学者のエピクテトス、啓蒙思想家のルソー、そして実存主義のカミュ。三人とも、「何個にすべきか」という問いには答えてくれません。でも、もっと本質的なことを教えてくれました。

はやま

習い事の悩みの根本は、「子どもの幸せとは何か」という哲学の問いとつながっています。答えを出すより、問いそのものを変えてみる。三人がそれを手伝ってくれます。

エピクテトスの答え:「あなたは今、コントロールできないものと戦っています」

エピクテトスは1〜2世紀のローマ帝国に生きた哲学者です。もともとは奴隷の身分でした。主人に足を折られても、「そうなると言いましたよね」と動じなかったという逸話が残っています。

そんな境遇を生き抜いた彼が残した言葉の核心は、とてもシンプルです。「この世界には、自分でコントロールできることと、できないことがある。苦しみのほとんどは、コントロールできないことを何とかしようとするところから生まれる」

習い事の悩みを、エピクテトスの目で分解してみましょう。

「まわりの子がやっているから」——これはほかの家庭の判断であり、コントロールできません。「やらせないと将来が心配」——子どもの未来は、誰にもコントロールできません。「やめさせたら後悔するかも」——まだ起きていない未来は、コントロールできる範疇にありません。

つまり、習い事の悩みのほとんどは、「コントロールできない外側」に心を持っていかれることで生まれている。エピクテトスはそう見抜きます。

では、自分でコントロールできることは何か。今日の夕食を一緒に食べること。子どもの話を聞くこと。安心できる家をつくること。意外と、そういう小さくて日常的なことです。

はやま

わたし自身は、母の「やらせなきゃ」という不安に振り回されて育った世代です。水泳、習字、公文、英語……。正直、全部いやでした。幼なじみたちと遊んでいる最中に、自分だけ習い事があるからと帰らなきゃいけない。あの苦痛はいまだに覚えています。水泳はのちに好きになりましたが(その話はここに書きました)、それも高校で部活を続けようとしたら母に猛反対されて叶わなかった。あのころの母もエピクテトスに会っていれば、少し楽だったかもしれないと思います。

ルソーの答え:「子どもが楽しそうじゃない、というサインを見逃さないで」

18世紀フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソー。彼の著作『エミール』は近代教育学の出発点とも言われる書物です。ルソーはそこでこう言っています。「子どもの不幸は、子どもを子どもとして扱わないことから始まる」と。

子どもは小さな大人ではない。子どもには子どもの時間があり、子どもの論理がある。そして子どもにとっての「学び」は、大人がスケジュール帳に詰め込んだカリキュラムの中ではなく、泥だらけになって遊んでいる中にある。それがルソーの確信でした。

習い事が増えるほど、子どもの「遊ぶ時間」は削られます。遊びは娯楽ではなく、子どもの発達そのものです。想像力、意志決定、感情の調整、人との関わり方——これらは授業でも習い事でも教えられない、遊びの中でしか育たないものです。

「子どもが楽しそうじゃない」と感じた瞬間、ルソーはそれを流さないように、と言います。子どもは言葉より先に、態度で真実を語るのだから、と。

はやま

娘がピアノを習いたいと言い出したとき、わたしはまずキーボードを買いました。いきなりピアノを買って「やっぱり嫌」になっても困るので(笑)。妻が昔ピアノをやっていたので教えてもらいながらしばらく弾いていたら、「鍵盤の数が足りない」と言い出して、電子ピアノを買ってあげた。そのあとしばらくして飽きてやめました(笑)。娘が本当に好きなのは絵を描くことでした。小さなころからスケッチブックに描き続けていた。パソコンとペンタブを買ってあげたら、小学校の絵画コンクールで入選したり、セーブ・ザ・チルドレンの絵画コンクールで最優秀賞をもらったり。書道も習わせていないけど、わたしがちょっとだけ教えたら区のコンクールに張り出されていた。文章の書き方を教えたら、読書感想文で学校の代表に選ばれた。「本人が好きなこと」を邪魔しないのが、いちばんの教育だったのかもしれないと思います。

カミュの答え:「矛盾の中で悩んでいるあなたは、すでに十分いい親です」

アルベール・カミュ。20世紀フランスのノーベル賞作家で、「不条理の哲学者」とも呼ばれる人です。貧しい家庭に生まれ、若くして父を亡くし、結核を患いながら書き続けた人の言葉は、やはり違います。

彼はこう言いました。「人間は意味を求める。でも世界はその問いに答えてくれない。その溝が、人間の不条理だ」と。

習い事の悩みには、答えがありません。「やめる」が正解かもしれない。「続ける」が正解かもしれない。やめたら後悔するかもしれないし、続けても子どもが身につけないまま終わるかもしれない。送り迎えをやめたら楽になるけど、罪悪感が残るかもしれない。

これは、答えが出ない構造をしています。正解がないのは、あなたが弱いからでも、考えが足りないからでもなく、子育てという営みがそもそもそういうものだからです。

カミュはそういう「答えのない問い」に正面から向き合い続けた人です。だから彼はこう言うでしょう。「あなたは不条理の中にいる。それでも子どものために最善を考え、悩み続けている。その事実そのものが、あなたが良い親である証拠です」と。

はやま

知人の子どもが、水泳・合気道・剣道・ピアノ・習字・英語・絵画、さらに中学受験の塾まで掛け持ちしていました。受験は失敗した。そこでぷつんと何かが切れて、「私は勉強が嫌い。もう偏差値の高いところは目指さない!」と全部放り投げたそうです(笑)。わたしはその話を聞いて、正直「よかったな」と思いました。詰め込まれた習い事の日々の中で、自立心だけはしっかりと育っていた。カミュが聞いたら、きっと笑いながら拍手すると思います。

最後に葉山から:子どもの幸せは、詰め込みの先にはない

三人の哲学者は、「習い事は何個が正解か」という問いには答えてくれませんでした。でも代わりに、もっと深いところにある問いを置いていきました。

エピクテトスは言いました。「あなたは今、コントロールできないものと戦っていませんか」と。ルソーは言いました。「子どもが楽しそうじゃない、というサインを見逃していませんか」と。カミュは言いました。「答えのない問いで悩んでいることを、恥じなくていい」と。

「子どもの幸せとは何か」。わたしがいまのところ出している答えは、「親が穏やかに過ごしている家にいること」です。習い事の数ではない。コンクールで賞をとることでもない。子どもはそんなことより、いまのあなたの顔を見ています。

習い事は「未来のため」に思えるけれど、子どもは「いま」を生きています。

ひとつ、やめてみてもいいかもしれません。そのぶんの時間と気持ちで、一緒にご飯を食べて、話して笑う。子どもにとっては、そちらのほうがずっと幸せかもしれません。