40代に入ってから、なんとなく自分が何者かわからなくなってきました。仕事もある、家族もある、恵まれていると思います。でも朝起きると、なぜか虚しい。これが自分の人生でよかったのか、このまま終わっていくのか、という気持ちが頭を離れません。情けない話ですが、誰にもいえずにいます。(40代・男性)
情けなくありませんよ。
むしろ、その感覚を正直に言葉にできた自分を、ご自身がもっと評価すべきかもしれません。「仕事も家族もある、恵まれている」——そういいながら虚しい。この矛盾に気づいている人は、意外と少ない。多くの人は気づかないふりをしたまま、60代になってから崩れます。
あなたはいま、正しい場所で迷っています。
哲学者たちに聞いてみましょう。
キルケゴール——「絶望は、回復の入り口だ」
19世紀デンマークの哲学者ソーレン・キルケゴールは、こんな言葉を残しています。
「絶望とは、自分でないものになろうとすることだ」
40代の男性は、長い時間をかけて「役割」を積みあげてきます。父親、夫、部下、上司、稼ぎ手——。それぞれの場所で求められる顔を、誠実に演じてきた。
でも、ある朝ふと気づく。これは全部、誰かに期待された自分ではないか、と。
キルケゴールはこの感覚を「絶望」と呼びましたが、彼はそれを悪いことだとはいいません。むしろ逆。絶望は「本当の自分」へ戻るためのサインだと。自分でない何かを演じ続けてきた人間が、そろそろ限界を感じて発するシグナル——それが「自分が何者かわからない」という感覚の正体かもしれません。
だとすれば、その虚しさは病ではなく、回復の始まりです。
はやま
モンテーニュ——「揺れていい。人間とは、そういうものだ」
16世紀フランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュは、「エッセイ」という文章形式を生み出した人物です。彼が生涯かけて書き続けたのは、壮大な哲学体系ではありませんでした。ただ一つのテーマ——「自分とは何か」。
その問いに対する彼の答えは、いつも同じでした。
「わからない。でも、それでいい」
モンテーニュはいいます。人間はそもそも一貫していない。昨日の自分と今日の自分は違う。明日の自分はまた変わる。だから「自分が何者かわからない」のは、正常なことだと。むしろ「自分はこういう人間だ」と固く決めてしまった人間のほうが、何かを見失っているかもしれない。
彼の言葉を借りれば、揺れることが、生きることです。
40代で揺れているあなたは、正常です。むしろいままで揺れずにいられたとしたら、それはずいぶん力を使ってきたということです。
はやま
ニーチェ——「まだ決めていないだけだ。これから決めればいい」
ニーチェならこう返すと思います。
「自分が何者かわからない? それは問題ではない。まだ決めていないだけだ」
ニーチェは「人間は自分を創る存在だ」と考えました。生まれながらに決まった「本当の自分」などというものは存在しない。人間は選択と行動の積み重ねによって、自分という存在を彫刻していく——そう考えたのです。
だとすれば、40代で「何者かわからない」というのは、むしろチャンスです。
20代・30代に積み上げてきた「役割としての自分」が、一度溶けはじめている。その溶けた状態こそが、これから何者になるかを選び直せる、唯一の瞬間かもしれません。ニーチェはこれを「第二の誕生」と呼ぶかもしれない。
過去の自分に何が足りなかったかを問うより、これから何をしたいかを問う。その方向転換が、40代という時期には必要なのかもしれません。
はやま
結局、揺れることは終わらない
三人の哲学者が、三つの方向から答えてくれました。
キルケゴールは「その虚しさは、本当の自分へ戻るためのサインだ」といい、モンテーニュは「揺れていい、人間とはそういうものだ」と語り、ニーチェは「まだ決めていないだけだ、これから決めればいい」と話す。
三人とも「早く答えを出せ」とはいっていません。
わたし自身、30代の後半に体を壊し、それまで追いかけていたものへの執着がすべてなくなった時期がありました。あのころのことは、また別の機会に書こうと思います。ただひとついえるのは、何かが溶けたあとのほうが、生きるのが少し楽になったということです。
あなたの虚しさも、何かが溶けはじめているサインかもしれません。
焦らなくていい。
はやま
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