においだけが、記憶に直接届く——出汁の香りと、娘の一生の話

夕方になると、頭のワタをとった煮干しを数個、昆布とともに鍋に放り込む。水を張って、ガス台に火をつける。しばらくすると磯の香のような、それでいてどこか遠い日の夕景を思い出させるにおいが立ちのぼってくる。

胸の奥がふっとゆるむ。

子どものころ、夕方になると決まって台所からトントントンという包丁の音が聞こえてきました。しばらくすると煮干しと昆布の香が漂ってくる。そのにおいをかぐと不思議な安堵感に包まれたものです。

わたしにとってはいまも、煮干しと昆布のにおいはあのころの安堵感をもたらしてくれます。

においだけが、脳の奥まで直接届く

においをかいだ瞬間、数十年前の記憶が突然、目の前にありありとよみがえる、こんな経験をしたことのある方は少なくないと思います。

人間の感覚のうち、視覚、聴覚、触覚、味覚の四つは、わたしたちがそれを認識するまえに一度「視床(ししょう)」という中継地点を経ます。受け付けでひと呼吸置いて、認識の部屋に通されるとでもいいましょうか。

でも嗅覚はちがいます。

視床を通らず、直接、扁桃体と海馬へ届く。つまり受け付けなしに感情と記憶の部屋に入り込みます。

これが、においをかぐと時間も空間も飛び越えて、あの日の光景、あのときの感情に直接わたしたちを運んでいってくれる理由です。

嗅覚を失うと、「家」が遠くなる

新型コロナが流行した際、一時的に味覚と嗅覚を失った人がたくさんいました。

彼らが口をそろえて訴えたのは、食べ物が味気なくなったということでした。そのなかには「家」に対する帰属意識が揺らいでしまったという人も少なからずいたそうです。

研究者たちのあいだでは以前から、嗅覚障害が孤独感や喪失感と関係しているという指摘があります。つまりおそらくこういうこと。

わたしたちはふだん意識せず、自分の家のにおい、家族のにおい、台所のにおいを通して、自分の「家」を自分の「居場所」として認識している。においを失うと、だから自分の家=自分の居場所から「安心感」が消え、なんだか心もとない場所になってしまう。

だから、わが家は出汁をとる

だからわが家では出汁をとっています。というと順番がおかしいか(笑)

先に書いた嗅覚と記憶の話、それまでも感覚的には理解していましたが、科学的な裏付けがしっかりあると知って、わたし自身が感じてきた不思議な「安堵感」の正体がはっきりしました。

それで、うちでは今後も出汁をとりつづけようと決意を新たにしたのでした。

はやま

顆粒だしにはにおいがほとんどありませんからね。娘がいつか家を出て、どこかで煮干しと昆布のにおいをかいだとき、思い出す場所が、この台所であってほしいと思います。

出汁のにおい、鮭を焼くにおい、ごはんの炊けるにおい——。和食のにおいは、わたしたち日本人の心に生家や故郷の思い出を静かに運んできてくれます。

先のことはわかりません。子どもがどこでどんな暮らしをしているかも。

でもたったひとつ、確かなことがあります。

あなたがきょうとった出汁の香りは、お子さんたちの人生のどこか深い場所に、ひとつ小さな灯をともしています。

将来、娘が大人になって、何かにつまずいたり、一人でがんばらなきゃいけない夜が来るかもしれません。そんなとき、どこかで出汁の香りがしたら、うちの台所の風景と「大丈夫」という感覚が彼女を包み込んでくれるかもしれない。

においは、親が子どもに持たせてあげられる、目に見えないお守りなのかもしれませんね(笑)

はやま
はやま

ゆっくりと出汁をとる日は、お子さんの心に「一生ものの安心感」を貯金している日。そう思うと、鍋を火にかける時間が少し誇らしくなりませんか?